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一時期よりは下火になりましたが、今でもたくさんの恋愛メディア、ありますよね。以前にも書きましたが、私も昔、恋愛メディアや婚活メディアで恋愛コラムを書きまくっていました。男性向けのものも書きましたが、多いのはやはり女性向けでした。
「本命女子になるための方法」「2回目のデートに誘われるマル秘テクニック○選」「婚活でモテ・ファッション決定版!」みたいな記事のほか、恋愛相談を受け付けて回答していたこともあります。
こういった記事は、現在もネットの海に日々放出されていますよね。みなさんは、これらを、どういった人が書いているかご存知でしょうか?
ライターとしてweb恋愛コラムを量産しまくった私の懺悔と「愛され女子」撲滅の誓い
フリーライターとして、ひとつ懺悔があります。それは、「倫理的にアウトな仕事はしたくないけど、生きるためにしちゃってます(ました)」ということです。…
恋愛コラムを書いている人で、モテそうな人を見たことがない
私は仕事柄、同業者に直接会う機会がたくさんありました。そして、「恋愛コラムを書いている人(男女関わらず)は、ことごとくモテなそう」だということがわかりました。どちらかというと地味な人が多く、優しそうだけど、モテそうなタイプではない、という人が多かったのです。
数万人もフォロワーがいる恋愛アカウントを運用しているある女性は、ごく普通の中年女性といった感じでしたし、長年ネットで恋愛指南をしている男性は、普通の中年男性でした(「普通」というのも曖昧な言葉ですが……)。
モテそうにないけれど実はモテている、という可能性はあるものの、実態は不明です。私に限って言えば、別にモテそうでもなければ、特段モテてもいません。
そういう「普通の」人たちが、モテや恋愛について、さもその分野のエキスパートかのように書き連ねている。それが大方の恋愛コラムの実態なのではないかと思います。
すべての恋愛コラムは主観に基づいて書かれる
恋愛コラムは「コラム(ちょっとした読みもの)」ですから、それぞれの主観に基づいて書かれています。どのような服装がモテるのか、どのようなふるまいをすべきなのか、というルールはあらかじめ存在しているわけではなく、個々のライターがイメージを塗り重ねることによって作り出されているのです。
「男性の本音」「女性の本音」が、ひとりのモテなさそうなライターの主観のみによって書かれていることも珍しくありません。さも自分が全女性・男性を代表しているかのように書ける、モテの極意を知っているかのように書ける、それもひとつの才能なのです。
恋愛指南の分野で「こうすればモテる」「男って(女って)こうだよね!」と言い切り、読み応えのある文章を書いていると、それを素直に受け止める支持者も集まるようです。
「とくに根拠はないけど、楽しく読める恋愛指南」を読んでも、たいした害はないかもしれません。しかし、留意しておきたいのは、モテ指南は性別役割の再生産に陥りがちだ、という点です。
「女は女らしく、男は男らしく」がモテの王道
社会学者の山田昌弘は、著書『モテる構造 男と女の社会学』(ちくま新書)において、「異性愛に限っていうならば、男らしい男性、女らしい女性が性愛の相手として好かれやすい=モテる」「男性規範から逸脱している(逸脱する志向性をもった)男性は、女性から好かれる(性愛の対象として選ばれる)可能性が少なくなり、女性らしくない女性は男性からモテにくくなる」とし、これが性愛規範、モテ規範と言ってもよい、と指摘しています。
また、武蔵大学非常勤講師の高橋幸は、著書『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』(晃洋書房)にて、『CanCan』(小学館)における「めちゃモテ🖤ブーム」(2003年〜2008年。モテという言葉を全面に押し出して発行部数を劇的に伸ばした現象。看板モデルはエビちゃんこと蛯原友里)をポストフェミニズム的社会現象として分析し、以下のような結論を導き出しています。
<「モテ」という言葉を流行語とし、性的魅力の高さを価値化するコミュニケーションの中で、かわいいものを理解できる「女らしさ」と、それを理解できない「男性」という新たな性別役割が作り出されている。ここでは、社会的意義や規範としての「男らしさ/女らしさ」が個人に押し付けられる形で内面化されているわけではない。他人から好かれたり、ちやほやされたりする状態になりたいという欲望とそのための努力によって、既存の「女らしさ」が積極的に学習され、新しい「女らしさ」が引き受けられている。恋愛や性を念頭に置いた「女らしさ」の強化が、性的差異や性別役割を存続させているというメカニズムが見られる>(P.131)
メディアはこれまで「モテる(不特定多数の人から恋愛・性愛の相手として求められる)ためには、多くの人が魅力的だと思えるようなステレオタイプな女らしさ・男らしさを身につける必要がある」という情報を発信し、多くの人に支持されてきました。
webの恋愛メディアも、「男性は女の子のこんなところにキュンとくる!」と題して、彼のために料理してあげる姿・女らしい気遣い……などといったアドバイスをするなどし(とある恋愛メディアで現在上位ランキングしている記事の一例です)、この流れに乗っています。
「女らしい女、男らしい男こそモテる」という大前提があるゆえに、恋愛コラムの多くは、性別役割を強化する働きを担っています。モテだけではなく、「愛され」も同じことです。誰かから愛されるために……の後に続くアドバイスの多くは、「女らしさ(男子向けの愛され記事はあまりない)」の規範を強化するものがほとんどです。
本当にそれでモテるのか。そもそもモテたいのか
果たして本当に、「女らしい女、男らしい男こそモテる」のでしょうか? モテるため、愛されるために、「らしさ」の規範に沿う努力をする必要があるのでしょうか? そもそも本当にモテや愛されを目指す必要があるのでしょうか?
疑問はつきませんが、現状、「女らしい女、男らしい男こそモテるのだ、といった趣旨の記事を、特段モテていなそうな人が量産しており、それを読んでいる人がいる」ということだけは事実です。
(原宿なつき)