医師でも知らない「依存症」の真実
そんなときに開きたいのが本書です。
虐待親の死にまつわる書物をこれまで読む機会がなかったのですが、本書はそこを教えてくれる稀有な本です。
※引用中の「……」は中略を示しています。
「母の死を目の前に突き付けられた。でも、想像もしなかったくらいに心の中は落ち着いていた。……母の葬儀の準備をしながらも、やはりそこには動揺も悲しみも、逆に安堵も何もなかった。一言で言い表すなら、それは”無”だった……自分の体がすごく軽い……このときから耳の聞こえ方がはっきりと変わった……わたしは地球がとても静かで穏やかな世界だと初めて知った。……そして今に至るまで、二度とあの重苦しい感覚に曝されることはない。それだけでもありがたいと思えるし、生きるのが楽だ。もしかしたらこれを幸せと呼ぶのだろうか。母の死をきっかけに知った感情が悲しみではなく幸せだとしたら、これはものすごく親不孝なことなのかもしれない。でも……」(p.184)
この箇所を書いてくださった勇気に敬意を表したいです。おおたわさんは、親に虐待された者ならば避けては通れないであろう「親の死を願ってしまう」気持ちまで踏み込んで書き表してくれています。
「正直なところ死んでほしいくらいに思ったこともある。……そんなことを言うと……たしなめるひともいる……でもわたしの知る限り、依存症家庭のほとんどが例外なく、『死んでくれたらどんなに楽になることか……』と考えたことが一度はあると言う。依存症家庭はどこもそれくらいに異常な関係性でつながっているのである。」(p.137-138)
実は私も、この考えがどうしても振り払えないことに子どものころから苦しんできましたが、ここまで本心をさらけ出した文章に初めて出会え、とても救われた気分です。
本書では著者・おおたわさんがご自身の生きざまを語ると同時に、医師としての言葉もつづられますが、家族の病理の前では、たとえ医師といえど五里霧中であることが率直に明かされているのがすごいと思います。
私は読む前、恥ずべきことに「おおたわさんは医師なのだから」というバイアスに捉われていました。
「ドクターはいいなぁ、私のような一般人より専門知識も横のつながりもありそう。機能不全家庭でもスマートに対処できるんだろうなあ」
しかしそれは的外れで愚かな先入観にすぎないことが本書を読みよくわかりました。そればかりか、
「一般人より医師のほうが悩みが深いのでは」
と、考えが180度変わったほどです。おおたわさんによると、もとから依存などに関する知識があったわけではない、とのこと。そもそも母が麻薬性鎮痛剤を使用しはじめた1970年代からつい最近まで、依存症が病気だという認識はどの診療科の医師にもなく、治療法も確立されていなかったそうです。
「今でいうなら母には境界性人格障害があったのかもしれない。感情がコロコロと変化し自分の思いどおりに事が運ばないと急に激高する。それでいて人の気を引くためなら手段を選ばない……こうした概念が確立したのはここ最近のこと。わたしが渦中にいたときにはまったく想像も及ばぬことだった。あの時代にこうしたことがわかっていたら、もう少し別のアプローチ方法を探すことができたかもしれない。」(p.163-164)
現役医師でありながら「知らなかった」と発言されるおおたわさんの勇気は賞賛に値すると思います。
「ネットを貪るように検索する日が続いた。平成のこの頃になると、インターネットで誰でも情報を得られるようになったのが画期的な前進だ。<依存症><薬物依存><処方薬物><オピオイド><専門医><専門外来>、思いつく限りのキーワードをとっかえひっかえ入力してみる。だが、これがなかなかヒットしない。……平成とはいえ今から30年も前の話だ。」(p.84)
ドクターならば「お医者さん用Wikipedia」にアクセスすれば知りたい情報を全部入手できるのかな、とイメージしていたのですが、当然ながらそんな都合のよいものがあるわけではないですよね。
医師であり依存症家族のおおたわさんでも母の依存症に立ち向かうためには地道にネットで情報収集し、薬物依存からの回復支援施設であるDARCに足を運び、専門医の門をたたくしかなかった。つまり、一般人と同じです。
「こういった概念がもっと早くに確立されていればアプローチ法も違っていただろう」
というおおたわさんの後悔は医師であるだけに、われわれの何倍も深いのでないでしょうか。