トラウマを表現する
ご自身のつらい体験だけを書くのをよしとはせず、死によって母から解放された今でも、
「過去にもどってなにかできることがあったのではないか」
というところまで本書には納められています。
「もしわたしが医者でなかったら、わが家がこんなにいびつでなかったら、一人暮らしの実の母親から具合が悪いと言われれば、心配して夜中でもすっ飛んで行ったのだろうか?……だとしたら、わたしはいつの間にこんなに冷酷な人間になってしまったのだろうか?」(p.160)
医者でない私は抱くことのない苦悩です。
そして母の最期、心臓マッサージを施したおおたわさんはこう自問されます。
「このとき、どうして瞬時に救命措置をしたのか、理由は自分でもうまく説明できない。わたしが医者だったから、無条件に体がそう動いたのかもしれない。だって、かつてはあれほど死んでほしいと思っていたじゃないか。……なのに、いざそのときになったらなんで蘇生を行ったんだろう?」(p.181-182)
私はこの件、自分に置き換えて想像すると、うまく息ができません。背筋が凍る思いです。なにが真実だったとしても、つらすぎる気がするから。できればパンドラの箱のように蓋をして、あまり深くは考えず
「私は蘇生を行った。娘として医師として人として当然のこと、良いことをしたのだ」
で済ませるのが精神衛生上は一番のような気がします。けれどもそうはせず、ここまで自分の気持ちや行動を分析し、今も考えつづけるおおたわさんの知性と勇気、並々ならぬ胆力を尊敬します。
自分に起こったトラウマティックなできごとをアウトプットするのは音楽であれ映像であれ文章であれ、恐ろしく大変なことです。トラウマを再び体験するほどに記憶を掘り起こす必要があります。
創作にセラピー的側面があるのは周知の事実ですが、過去の精神的外傷が原因で罹患している人間にとっては、それがテーマの創作自体、自傷行為になりえることは、もっと知られてもいい気がします。
そんなことは医師であるおおたわさんは当然ご存じで、だからこそ安心して読める本です。
さらに注目していただきたいのは、本書が読者の助けとなるよう、実用的な手引きとして書かれているという点です。
ご自身に起こった虐待エピソードはあっさりと「丸めて」描写し、そこに依存症治療者である現在のご自身の言葉をプラスする。全篇をとおしてそのバランス感覚とセンスが素晴らしいと思いました。高度なさじ加減の妙を、みなさんにも味わっていただきたい。
最後に、読んでから毎日のように考えつづけており、個人的にとても勉強になった大好きな箇所を引用します。
「精神科医の小林桜児先生の著書『人を信じられない病ー信頼障害としてのアディクション』のなかにこんなたとえ話がある。……依存症患者を荒波を漂流するひとりの人間に置き換えてみる。……彼は思わずボートから飛び降りてしまった。……そんなとき、目の前に浮き輪が流れてきた。彼はそれを迷わずつかむ。……ボートの上の人間たちは、そんな彼を見て嘲笑った。……なかには無理やり浮き輪を力ずくで取り上げようとする者まで出てきた。……こうして彼にとってたったひとつの味方の浮き輪は、ダメだと言われれば言われるほどどんどん放し難い大事なものになっていくのだった。
小林先生いわく、ボートは社会生活を表している。大多数の人間にとっては、なんてことのない集団生活がどうしても苦痛でならないひとがいる。
そんなひとにとっては浮き輪こそが依存対象。アルコールであり、薬物でありギャンブル。SEXや暴力もそう。生きるためになんとか見つけだした秘薬なのである。
この話を聞くと、どうして彼らが依存に足を踏み入れ、どうやって抜けられなくなっていくのかが手に取るようにわかる気がする。」(p.201-202)
この箇所を読んで、私自身今までずっと理解に苦しんできたことに対して新たな視点を得ることができた気がしています。