「障がいがあるから素晴らしい作品を描ける」という思い込み。アール・ブリュット〜生の芸術にあなたは何を思う?

文=みたらし加奈
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(C)みたらし加奈

——LGBTQ+、フェミニズム、家族・友人・同僚との人間関係etc.…悩める若者たちの心にSNSを通して寄り添う臨床心理士が伝えたい、こころの話。

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 先日、私は東京都渋谷公園通りギャラリーに足を運んだ。目的は「アール・ブリュット」。『満天の星に、創造の原石たちも輝く -カワル ガワル ヒロガル セカイ-』と名付けられたその展示会を私は心から楽しみにしていた。本展示会のキュレーターである小林瑞恵さんらと共に、会場に向かった。

 私はアートが大好きで、小さい頃から絵を描き続けてきた。母に連れられて美術館に行くこともあったため、なんとなく知識としての作家の名前や、手法についての知識(例えばモネが印象派、ゴッホがポスト印象派と呼ばれているなど)は、素人なりに知っていたつもりであった。しかし「アール・ブリュット」について知ったのは、臨床心理士として働き初めてからだった。

 アール・ブリュットとは、フランス語で「生(き)の芸術」という意味で、既成の芸術教育を受けていない人が、独自の発想と方法で製作したものを指す(※出典:「アールブリュット、湧き上がる衝動の芸術」小林瑞恵著)。Artは「芸術」、Brutは「加工されていない生(なま)のまま」という意味である。私の中では「知的障がいや精神障がいを持つ方が製作したアート」という認識があったのだが、小林さんに尋ねたところ「障害の有無に関わらず、本当に多様な作り手たちが存在します。独自の発想と方法で創作した作り手たちの記憶の集積なので、実はそこに障がいは関係ないのです」と答えてくださった。

 展示会に飾られた作品には、作者のバックグラウンドはほとんど書かれていない。そのことに気がついた時、自分の中にも「先入観」があったことを思い知らされた。「こんな障がいを持っているからこそ、このような素晴らしい作品が書けたんだ!」というのは、ある意味、見る側の妄想であり、そこに「意味」を見出そうとしてしまっているのは“私が納得したい”ためだった。

 頭の中で凝り固まっていたものが、ガラガラと崩れ落ちる音がした。そして同時に、無我夢中で絵を書き殴っていた以前の自分が蘇ってきた。

なぜ描くのか

 前述したように、私は昔から絵を描くのが大好きだった。ただある瞬間から「苦しいとき」にしか絵が描けなくなった。流せない涙は、絵の中で「血液」として現れ、鋭く突き刺さる評価は「目」として現れた。誰にも思いを打ち明けられないとき、無意識に筆が動いていた。誰に見せたいわけでもなく、評価されたいわけでもなく、ただひたすら描き続けた。それは私なりの「自身の解放」の方法であり、キャンバスの中で私はどこまでも自由で、無垢な存在でいられるような気がしていたのだと思う。

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 しかし興味深いことに、教育分析(カウンセラーのカウンセリング)を受け始めてから、そして今のパートナーとの出会ってから、私の絵のタッチは変わり始めた。明らかに「誰に見られるか」「どう見られたいか」について考えながら筆を進めていくようになったし、「血液」や「目」などの表現もなくなっていった。月並みな言葉で表現すれば、「優しい」絵になっていったと感じる。そして心が安定していくとともに、絵を描くことも減っていった。そしてそんな私が展示会に赴き、絵の前で思ってしまったのだ。「この絵はどんな障がいを持っている方が描いているんだろう…」と。

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 「ボーダーラインやカテゴライズを嫌っていたはずなのに、自分もいつの間にか“それ”をしようとしてしまっていたことに気づきました」。そう小林さんに伝えると、「絵を描かれている方々は、評価というものを前提としていないんですよね」と話してくださった。そこで初めて、「生(き)の芸術」としての意味が少しだけ理解できた気がした。間違いなく、私の目の前に広がる絵は“生きて”いた。もしかすると、私の絵だって“生きて”いたのかもしれない。作家のパワーや抑圧や頭の中のすべてが、そこにそのまま存在していて、その手で私の心が鷲掴みにされたような、そんな吸引力を持つ作品が多かった。

 多くの人たちは、生きていく中でどうしても「誰に見られるか」「どう見られたいか」という境界線を自ら張ってしまう時がある。もちろんそれが芸術として現れていたとしても、1つの作品として吸引力を持っていると感じるし、心理学の中で「社会性」として評価される特性が“悪い”わけではない。しかし無我夢中に描かれた作品たちは、私に再び「自由」を与えてくれたような気がした。もしかすると「社会性」というものは、不自由なことを学習していく過程で生み出されるものなのかもしれない。例えどんな特性を持っていたとしても、私たちは生まれながらにして自由な存在であり、取り繕わなかったとしても、その人は充分すぎるくらいに魅力的な存在なのだ。

 ——アール・ブリュット展でのひとときは、そんなことを考えさせられる、濃厚な時間だった。

 あなたは作品を目の前にした時、何を感じるだろう。きっと人によって受け止め方は違うと思う。自分はどこに何を感じているのか、そんな理由を見つけてもいいし、見つけなくてもいい。「わからない」ことに理由を見つけることは、確かに一種の心理的安全性があると思う。しかしながら「わからない」気持ちをそのまま心に染み込ませながら、考え続けることだって“人生”なのかもしれない。いつだって「答え」も「意味」も、その人の中にしかないのだから。

 こちらの特設展は、東京都渋谷公園通りギャラリーにて2020年12月6日まで行われている。詳細はこちら

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