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朝鮮戦争については2回に分けて書くつもりでしたが、結局4回になってしまいました。やはりこのテーマには書くことがたくさんあります。
締めくくりとして今回は、「女性が体験した朝鮮戦争」という視点で一人の作家を扱います。朴婉緒(パク・ワンソ)(1931〜2011)です。
韓国には、尊敬をもって「長老」と呼ばれた女性作家が何人かいますが、朴婉緒は間違いなくその一人でした。年代、作風、作家としての位置づけなどから見て、日本に当てはめるとするならば、佐藤愛子、田辺聖子、有吉佐和子といった顔ぶれに近い気がしますが、どうも、この中のお一人の名前を挙げただけでは間にあわないようなのです。朴婉緒にぴったり重なる女性作家は、日本では見いだしにくいのではないかと思います。
大変な男社会である文壇において、長きにわたって尊敬と信頼を集め、また非常に読者に愛され、そして本がよく売れた、そういう大家です。無類に面白い物語を書くストーリーテラーであり、極上の風俗小説家でした。時代を先取りする精神もあり、『1982年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ、拙訳、筑摩書房)を先取りするようなフェミニズム小説をすでに80年代に書いていました。また、真率に綴られた自伝的作品は貴重な記録の役割も果たしました。
朝鮮戦争が休戦に入った1953年に結婚して以来主婦として暮らし、子育てが一段落した40代に作家デビューした彼女の作品には、ともすると観念的になりがちだった70〜80年代の韓国文学において貴重な生活者の感覚がありました。キリスト教信者でしたが、晩年に息子を交通事故で亡くした際には、信仰への疑い、葛藤、神様との格闘を正直に描いてさらに尊敬を集めました。
人間くささが湯気を立て、韓国人の韓国人たるゆえんが滴っているかのような朴婉緒ワールドには、韓国文学を読む醍醐味が溢れています。 特に繰り返し描かれてきたのは、さまざまな状況の中で女がどのような選択をし、どのように行動し、どのように生き抜いたかという光景でした。
中でも、著者自身の経験を交え、朝鮮戦争下での女性たちを描いた自伝的作品が重要です。『新女性を生きよ』(朴福美訳、梨の木舎)、『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』(橋本智保訳、かんよう出版)の2冊です。
1970年に雑誌『女性東亜』の懸賞小説に代表作の『裸木』が当選して作家デビューして以来、大変旺盛に書きつづけてきた朴婉緒ですが、60代になった1992年にこの自伝作品シリーズをスタートさせ、2冊で150万部という大ベストセラーを記録しました。
著者はこれらの小説について「初めから終わりまで記憶力に頼って書いてみた」と語っていますが、読むと、本当にこれが60代の人の記憶だけで書かれたのかと驚くほど描写が生き生きしています。韓国の文芸評論家イ・ナモッはこれについて、「我が文学史において最も緻密で豊かに記録された作品」「最も真実味あふれて書かれた二〇世紀韓国の生活風俗史的意義を持つ作品」と述べました。
若い主人公を中心に据えた成長小説であり、同時に、非常に濃厚な家族小説でもあります。ちょっと変なくらいにプライドの高い母親、知性的に見えるが実はもろい兄、彼を支える鋼のような兄嫁。しかしいちばん個性的なのは、若い日の朴婉緒自身と重なる主人公本人だと思います。
『新女性を生きよ』には、主人公が生まれてから朝鮮戦争までが描かれています。日本の植民地時代から朝鮮戦争までという、激動の時代です。「新女性」とは、朴婉緒の母が娘に「お前はたくさん勉強して、新女性にならなくちゃ」と言い聞かせていたことを指します。「新女性」は韓国の開化期から広く使われた言葉ですが、それがどういう女性を意味するのか母自身もはっきりわからないながら、強い魅力を感じて娘にそう言い聞かせていたようです。
主人公は朴婉緒同様、1931年に京畿道開豊(ケブン)郡に生まれたことになっています。今の北朝鮮の開城(ケソン)に近い田舎の村です。幼いときに父親が亡くなりますが、母が「何が何でも子どもの教育はソウルで」と考える人だったため、ソウルへの引っ越しを強行し、縫い物などの仕事をしながら兄妹の教育に力を入れました。
その甲斐あって主人公は名門女子高校に入り、1945年に朝鮮が解放されたときには高校1年生でした。この学校では授業は数日受けただけで、軍服のボタンつけや、代替燃料となる松ヤニ集めなどの作業ばかりやらされていたそうです。
解放を迎えると間もなく、学校に自治会というものができました。全学生集会がしょっちゅう開かれ、「あの先生は親日派だから追い出さなくては」とか、「この先生は辞任させてはならない」などと学生が論議していたといいます。この時期のことを朴婉緒はこう記しています。
「言葉の端ごとに絶対支持でなければ決死反対がついてまわった当時の口調でもわかるように、だれ彼なく、ある一方の理念につながらなくては不安な解放後の社会の風潮」
絶対支持でなければ決死反対。曖昧な立場が許されず、下手をするとそれが生死につながる世の中がもう始まっています。朝鮮戦争でそれが頂点に達するわけですが、このような世の流れに最も翻弄されたのは、やはり若い人たちだと思います。
主人公の兄がまさにそうでした。彼はもともと考え深いインテリで、植民地時代、母が「そろそろ創氏改名をした方がいいのではないか」と考えているときに反対したことがありました。妹はそんな兄を「うちのお兄さんはどこか違う」と尊敬していたのです。
ところが、兄の足取りが徐々にもつれはじめます。彼の姿は、その時代にあってまっすぐ歩くことがいかに難しかったかを示しています。兄は解放後の一時期、教師として働きながら左翼活動をやっていましたが、妻に感化されて転向します。転向すると今度は自衛のために、左翼を取り締まる団体(「補導連盟」といいます)に入ります。
そこへ朝鮮戦争が始まり、ソウルに北朝鮮軍がやってきました。ソウルが陥落すると刑務所から思想犯たちが解放され、彼らはトラックに乗り込んで凱旋のように街を走ります。そこへ兄が偶然、通りかかります。何だかよくわからない感激的な雰囲気の中で、ふと気づいたらトラックの荷台から差し伸べられた手にすがって、兄もそこに乗ってしまっていました。「おお、同志よ」みたいな雰囲気になり、結局、兄は囚人服姿の集団を引き連れて帰宅したのです。家族はわけもわからないまま、会ったこともない、素性もわからない革命家たちのために祝宴を準備するしかありません。
こんなことがあると近所の人たちは、「あの人は転向したと言っていたけど、やっぱりそれは偽装で、本物のアカだったんだ」「あんなにたくさん集まっているのだから、大物なんだ」と見るわけで、しかもこの状態がいつまで続くかも予想がつかないのですから、家族の心配はきりがありません。
敵味方が入れ替わる朝鮮戦争ならではのこうした事態は、この連載で今まで紹介してきた小説でも盛んに描写されてきたものです。そして朴婉緒の自伝小説は、20歳の若い頭脳に焼きついた記憶を60代の老練な作家の頭脳が再現しているせいか、他にはない迫力と洞察に満ちているのです。
結局兄は、家族をさんざん心配させた揚げ句、とうとう北朝鮮軍の義勇兵として連れていかれてしまいました。家族は避難することもできずソウルで息を潜めて暮らします。前々回に取り上げた『驟雨』(廉想渉・白川豊訳・書肆侃侃房)を地で行くような生活だったわけです。
ちなみにこのとき、主人公はソウル大学英文科の学生になっていました。母はどんなに自慢だったことでしょう。しかし入学したのが朝鮮戦争開戦の年、1950年の5月で、6月25日にはもう戦争が始まってしまいます。