
『新女性を生きよ』
約3カ月たった9月、米軍の後押しで戦況が逆転し、北朝鮮軍はソウルから撤退します。撤退に当たっては、反共人士と目された人の粛清、有能な人材の拉致、施設の破壊などが行われました。占領下で粛清されたソウル市民は1万人に迫り、北に連行された人数は2万から3万と推定されているようです(正確な数字を割り出すのは非常に困難なことです)。
そして、この時期に避難できずソウルにとどまった人と避難した人との間には、埋めがたい溝が生まれました。避難しなかった人には多かれ少なかれ、共産主義者への協力者の烙印が押されてしまいました。
著者は「つきつめていくと共産党の治世下で生き残ったことさえ罪になりえた」と書いています。つまり、どこかに身を潜めて生き延びていたとしても、誰かが食料を届けてくれてはいたはずです。その誰かは疑いをかけられないよう、いっそう熱心に人民軍に協力し、金日成をたたえ、喉を枯らして人民歌謡を歌いまくるしかなかったでしょう。そんな中で一人だけ潔白を主張することは非常に難しくなってしまうのです。
朴婉緒によれば、「一点の疑いもなく潔白であると主張するには、漢江の橋を渡って避難したというのが最も有効」だったそうで、そこから「渡江派」という特権階級が生まれた、とまで記されています。
ソウルは38度線から非常に近いので、ここに残った人々は北へ、南へとたらいまわしにされざるをえませんでした。それなのに大邱(テグ)や釜山に避難した人たちがいちばん苦労したように言っているのを聞くと悔しいと、朴婉緒は折に触れて漏らしていました。
小説『新女性を生きよ』の一家も近所の人から告発され、代表として主人公が取り調べを受けました。母は高齢で、義姉は出産直後だったからです。しかし彼女は、あらゆる侮辱を受けたものの拘束はされませんでした。それは、すでにあまりに多くの人が留置されていて収容場所が足りなかった上、アカを取り調べる専門家の目には、自分が取るに足りない者に映ったからのようだと作家は書いています。そして、次のような一文があります。
「何であれ専門家よりも素人の方がずっと恐ろしいもので、人間を殺すことにかけてはなおさらである」
ここを読んで私は思わず、関東大震災の際の日本人による朝鮮人虐殺を思い出しました。
一家の困難はこの後も続きます。やがて兄が人民軍を脱走して帰還してくるのですが、まるで抜け殻のようになっており、留守の間に生まれた息子を抱いてみようともしません。
一方では、叔父が捕まって死刑を言い渡されます。獄中から「自分がなぜ死刑になるのかわからない、弁護士をつけて助けてほしい」と手紙が来ますが、一家には人脈もなくて、どうすることもできません。結局、いつ処刑されたのかもわからないままに戦況が変わり、この叔父とは生涯会えずじまいとなりました。
国連軍は北へ向けて進撃し、平壌まで達しますが、10月末に中国の人民義勇軍が参戦したことによってまた戦局が一転します。国連軍は再び撤退を余儀なくされ、明けて1951年の1月4日、ついにソウルは再び陥落し、多くの市民が戦火を逃れて避難しました(これを「1.4後退」といいます)。
そして朴婉緒の一家は、このときも避難することができなかったのです。まずは、北への協力の疑いをかけられていたため、スパイではないと身分を証明する市民証を手に入れられなかったからです。これがないと移動の自由がありません。その上、兄が、勤務先の学校で宿直をしていたとき、学校に駐屯していた兵士の銃の暴発によって足に大けがをしてしまったのでした。
もはや万策尽きたかに思われたとき、母が、避難するふりだけでもしてみようと提案しました。
「いこう。たとえ死ぬためにだけでも、いける所までいって死のうよ。あんなに追い立ててるのに避難しないでごらん。後でうちがどんな仕打ちを受けるか。またあんな目に会わされるんだったら死ぬ方がましだよ」
疲れ切った主人公と義姉、母は身動きのできない兄をリヤカーに乗せ、赤ん坊をおぶって家を出ます。当てなどありません。けれども彼らは、知り合いが住んでいた町を仮の避難先と決め、主人のいない戸締りされた家をこじ開けて、陣取ります。
その家は高台にありました。一夜明けて、一変した世界の様子を見ようと外へ出た朴婉緒は、天にも地にも人の気配がないことに恐怖を覚えます。
「この大都市にわたしたちだけが残っている、この巨大な空虚を見るのもわたし一人だけである」と彼女は思います。「この先押し寄せる不測の事態を見るのもわれわれだけだなんて、そんなことに耐えうるだろうか」。そう思ったとき、不意に思考の転換が訪れたというのです。
「わたしだけが見ているのなら、そこに何か意味があるのではないか」
「わたし一人だけが(これを)見ているのなら、それを証明する責任があるはずだ」
これが、戦火の中の若い日を思い出して60代の朴婉緒が書いた、『新女性を生きよ』のクライマックスシーンです。このとき朴婉緒を襲った霊感は、「自分はいつか、何かを書くだろう」という予感でもあったと、著者ははっきり書いています。その後40年を経てこの小説が生まれたという事実に、読者の誰もが深く打たれることでしょう。

『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』
『新女性を生きよ』はここでいったん終わり、物語は『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』に続きます。この本は手に入りやすいと思いますので、ぜひ実際に読んで見ていただきたいと思いますが、主人公が戦争の中でさらに否応なく成長し、過酷な現実の中を生き抜いていく様子が描かれます。
特に、主人公と義姉との間に強い絆が生まれ、その位置から自分の母を客観的に見つめ、愛情を対象化していく過程がとても興味深いのです。生死を分ける選択を何度も何度も迫られるうちに、家族関係そのものが根本的に試され、互いにうんざりし、期待もしなくなっていく、その過程で人間の本質が見えてきて、底の底で見た何かに賭けるようになっていく。そのようにして鍛えられた絆です。
兄は最後まで一家を振り回して亡くなってしまいますが、そのとき義姉も主人公も母も、もはや精根尽き果てています。すばやく腐っていく死体を何とかしなくてはという一念で、兄が死んで1日もたたないうちに、そそくさと埋葬を済ませます。そのときどきに立ち止まって悲しんでいる余裕などなく、お互いを思いやる余裕もない、涙も出ない、けれどもそのとき確かに交わされた情感のやりとりがあり、朴婉緒は生涯それを忘れず、それに忠実だったと思います。
『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』は、主人公が一家を支えて働き、やがてソウル大学を辞め、職場で出会った男性と結婚するまでが描かれますが、これも朴婉緒の実人生とほぼ同じです。