
『完全版 韓国・フェミニズム・日本』
以前、『文藝』(河出書房新社)の「韓国・フェミニズム・日本」(2019年秋季号)特集に書いたことですが、私が初めて読んだ韓国の小説は、朴婉緒の「盗まれた貧しさ」という、1975年に発表された短編でした。
これもまた、非常に噛み応えのある短編小説です。主人公は貧しく若い女工さんで、小さな部屋で、自分と同様工員の恋人と一緒に暮らしています。貧しいけれども自力で生活を営んでいることに誇りを持っているのです。しかしあるとき、恋人が実はお金持ちの跡取り息子で、社会経験を積むために自分に目をつけて転がりこみ、貧困層の暮らしを味わっていただけだったとわかります。
彼女は男を一喝して追い出しますが、その後、何ともいえない居心地の悪さを感じます。つまり、あの男は自分の貧しさを盗んだのだと思い当たるのです。
「私の部屋にはもう貧しささえなかった。私はサンフンが貧しさをかすめ取って行ったのにやっと気が付いた。私はくやしくてギリギリと歯ぎしりをした。しかし私の貧しさを、私の貧しさの意味を、いかにして返してもらうことができようか。」(『韓国現代文学13人集』古山高麗雄編、新潮社、1981年)
こういった心情は、1970年代の韓国の庶民層の生活感情がイメージできないとなかなか味わえません。事実、これを読んだ当時の私は、なかなかこの短編の味を理解することができませんでした。
その代わりに印象に残ったのは、こまごまとした生活描写、特に料理の描写でした。朝食の場面で、彼女の作ったチゲには煮干しが丸のまま浮かんでおり、その煮干しには目玉がついたままだという描写があります。男は「煮干の頭をとってから入れたらいいじゃないか」と文句を言い、主人公は反撃するかのように、煮干しをこれ見よがしにくちゃくちゃと嚙みます。そのとき男が煮干しについて、こんなことを言うのです。
「ちぇっ。目をつぶって死んでるやつは一匹もないじゃないか」
ここを妙に印象深く覚えていたのですが、去年読み返してみて、この、目を開けて浮いている煮干したちを、朝鮮戦争における無数の、無念の死者たちと重ねて読むことも可能だと思いました。深読みかもしれません。この物語の主人公たちは朝鮮戦争当時まだ生まれていないか、ごく幼かっただと思われますから。
しかし、朴婉緒の世界には常に、煮干しの「だし」のように、朝鮮戦争の体験が溶け込んでいるのではないかという気がします。
朴婉緒が一貫して描いてきたのは、揉まれて生きながら、人間がどのようにして矜持を保つのかというテーマでした。特に、女が女としての身の振り方を探りつづけ、それを女が見ているといった構図を好んで取り上げました。ちょっと幸田文などに通じる面があると思いますが、もっと骨が太く、同時に解像度も高いのです。その大もとが朝鮮戦争の経験にあると思います。
彼女の生まれた家は両班の出を名乗っていました。田舎の村で、周囲の家と暮らしぶりはほとんど変わらないものの、「お前は家系のはっきりした家の子なんだ」と母に言われて育ったと朴婉緒は書いています。
母親の強い後押しによってソウル大学にまで進学した彼女でしたが、戦争のため大学にはほとんど行けずじまいでした。戦況が1段落してからは、米軍のPX(売店)で働きはじめます。名門大学の学生だから英語ができるだろうということで採用されたのです。
彼女自身にも、自分はソウル大学の学生だという自負があったようですが、後になって、PXには学歴のある人がたくさん働いていたということがわかったそうです。「大学生だということを鼻にかけていたのは、たかが数日しか大学に通っていない私だけだった」ということです。
このようにして、人の生死も階級も価値観もあっという間に引っくり返る大揺れの青春時代を過ごした朴婉緒の人間を見る目は、独特の冴えと優しさが共存しています。彼女は、生き残った人々が無言のままに抱えているものを見抜き、それを鮮やかにスケッチすることに非常にたけていました。それは単に思い出ではなく、今日1日1日を生きる思いにつながるものでした。
戦争体験が創作にもたらしたもの
例えば、翻訳はされていませんが、「冬の外出」という短編があります。「盗まれた貧しさ」と同じ1975年に発表されたものです。
この小説の主人公は、今は安定した生活を送っている主婦です。夫は朝鮮戦争当時に北から避難してきた画家ですが、北にいたときにすでに結婚していました。戦争の混乱の中で、妻を北に残したまま幼い娘一人を連れて南に避難し、子連れで主人公と再婚したわけです。
その娘は今やすっかり大人になり、結婚し、1歳の子供の母親になっています。その娘が実家に寄って、父親の絵のモデルをつとめているのですが、主人公はそれを見ると胸が苦しくてたまりません。夫が、娘を通して、北に置いてきた最初の妻の面影を見ていることが明らかだからです。
自分はどんどん老いていくのに、夫の胸の中にある最初の妻はいつまでも、輝くような若い母親の姿で残っているのだ。そう思った主人公は嫉妬に苦しみ、今までの自分の人生が虚しいものに思え、それをなだめるために温陽(オニャン)温泉に一人旅に出ます。そこでたまたま泊まった安宿で、50代くらいのおかみといろいろな話をするようになります。
この宿には、おかみの姑だという老婦人がいるのですが、その人は何もものを言わず、主人公を見ながらずっと首を左右に振っています。何か気に入らないことがあるのかと思いましたが、実はこれが朝鮮戦争以来続いている、つらい習慣だというのです。
戦争当時、おかみの夫は北朝鮮軍から逃れておかみの実家である村に隠れていました。その間、嫁は姑に、夫について誰かに聞かれたら「知らない」とだけ言うようにと強く言い聞かせていました。ところが、やがてソウルから北朝鮮軍が撤退したとき、もう安全だろうと高をくくった夫が家に戻ってきてしまい、そこを敗残兵に見つかって殺されてしまいます。
それ以後姑は、眠っているとき以外は常に「知らない」とでもいうように首を左右に振ることが止まらなくなり、どんな医者もそれを治すことができませんでした。
25年間も姑の世話をしてきたおかみは、姑が首を振ることを「大事業」と呼び、こんな大事業をしているのだから、食事だけでも心を込めて作り、命を全うするまで見守りたいと語ります。それを見て主人公は、おかみもまた大事業をしていると感じます。
そして主人公は、旅行をやめておかみと一緒にソウルに行くことにします。なぜなら、ソウルで大学に通っているおかみの息子の行方が知れなくなったという事情があったためです。
夫が殺されたときにはまだ幼かった息子です。普段から真面目で、外泊するような学生ではないのに1週間も戻らないのはおかしいと、下宿の主人から連絡があったのです(はっきりとは書かれていませんが、明らかに、学生運動に参加して逮捕された可能性を示唆しています)。
主人公はおかみに付き添ってソウルまで同行することにしますが、出発の準備を終えて姑に「お元気で」と声をかけると、老婆はやはり左右に首を振っています。それが主人公には、「いいえ、あなたは決して無駄に生きてきたのではないよ」と言っているように見えた、と朴婉緒は書いています。
朴婉緒のこのような作品を読むと、戦争体験のときに手渡された強力な「しゃもじ」のようなもので、韓国という飯を底からしっかりかき混ぜ、おわんに盛って、差し出してくれているように感じます。それは、「わたし一人だけが(これを)見ているのなら、それを証明する責任があるはずだ」という霊感をその後20年も熟成させた人ならではの味ではないでしょうか。