韓国文学の重鎮パク・ワンソに見る 女性たちの体験した朝鮮戦争/斎藤真理子の韓国現代文学入門【4】

文=斎藤真理子
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『1982年生まれ、キム・ジヨン』

 また、「空港で出会った人」という短編も非常に面白いものです。『韓国短篇小説選』(大村益夫・長璋吉・三枝壽勝編訳、岩波書店)に収められています。

 1978年発表ですから、「盗まれた貧しさ」「冬の外出」より少し後の作品ですが、韓国社会の経済状況が徐々によくなり、パワーをつけていく時代の空気が感じられる小説です。

 主人公は済州島へ旅行に行った帰り、空港で、ものすごい勢いで罵倒語を言いまくっている老いた女性に会います。その人は、かつて朝鮮戦争中に主人公がPXに勤めていたとき、そこで清掃員をしていた女性で、「ゴム入りのおっかさん」というユニークなニックネームを持っていた人でした。

 なぜこんなニックネームがついたかというと、この人がゴムひもを使う名人だったからです。彼女はいつも丈の長い下着を身につけており、その下着とゴムひもを大活躍させて、PXの商品を外へこっそり持ち出していました(もちろん、闇で売りさばいて収入にするためです)。具体的な方法は、次の通り。

「それ(下着)を足首までおろして、足首のところからたばことか歯磨き、チョコレートなどを一列にぐるりと付けてから、その分だけ下着を引き上げゴムひもでくくり固定すると、同じやりかたで次の段を積む仕事をくりかえし、足くびからふくらはぎへ、ふくらはぎから太股へ、太股からおしりへ、おしりから腰まで品物を一重ねまとうと、とてつもない量の品物もあっという間だった」。

 こんなに大量の品物を体につけても、その上にふわりとしたチマ(韓国伝統衣装のスカート)をまとうと、ごまかせるのですね。

 もちろんこの行為は女子トイレで行われますから、同僚はみんな知っているわけです。持ち出しは当然禁止ですが、従業員の多くは生きていくためにそれをたびたびやり、身体検査のために配置されている婦人警官も賄賂を渡して抱き込んでしまいます。

 「ゴム入りのおっかさん」は、夫が前線におり、夫の家族10人を一人で養っていたので、筆頭の常習者です。彼女は教育はないけれど「独特の威厳」を持ち、傲慢なほど堂々としており、そのせいなのか絶対に疑われたり捕まることがありません。それが強烈な印象を放っていたので、若かった主人公もよく覚えていたのです。

 その「ゴム入りのおっかさん」が、前線に出ていた韓国人の夫を失った後、アメリカの軍人と結婚して子どもを生み、先に帰国した夫のもとへ行こうとしているところに、主人公が出くわしたのでした。

 しかも、そのアメリカ人の相手は軍を辞めた後全く働かず、「ゴム入りのおっかさん」にたかって暮らしていたらしいというのです。

 それについて、彼女はこんなことを言っています。「あたしゃ自分が食べてくためにこんなことするんじゃないよ。アメちゃん食わすためこんなことしてるんだ。あいつら、あたしら三千万人がみんなあいつらのおかげをこうむってるんだと思ってるけど、韓国人のおかげで飢え死にせんと生きてるアメちゃんだっているんだよ」

 アメリカなしでは生きていけない韓国だけど、それを引っくり返して生きている人間がいる、それが私だというこの一発逆転の独自の論理。結局、汗水流して働くのは彼女なのですが、とにもかくにもそんな論理で誇りを保ち、頭をしゃんと上げ、韓国語の悪態でハーフの子どもたちを叱り飛ばしながら、彼女は希望に満ちて出国ゲートを出ていきます。そんな彼女を見送る主人公は、かつて、「ゴム入りのおっかさん」に確かな孤独の影を垣間見たことも思い出しつつ、こう述懐します。

「どれほど親しい友人とか兄弟を見送っても、こんなに寂しかったことはなかったように思われた」

 イデオロギー戦争は庶民を被害者にも加害者にもします。傍観が人を殺すこともあれば、否応なしに告発者にならざるをえないこともある。そこへ放り込まれて、同じ池であっぷあっぷしながら一時期を乗り切り、ようやく打ち上げられた職場で一緒に働いた同僚たちは、醜さも憎しみも見せ合い、家族よりも腹の底がわかる仲になっています。

 彼女の作品を読んでいると、喜怒哀楽が毛細血管の先の先まで行き渡り、それを生き切る天晴れさのようなものを感じます。それは先回、尹興吉のところで書いたように、戦争と生活が傷と膿のように一体化した生活を生き延びた人ならではの味だと思います。

 朴婉緒は2011年に惜しまれながら亡くなりましたが、その後、若い作家たちの書き下ろしによる、朴婉緒を記念するための短編アンソロジーが企画されました。ここには『82年生まれ、キム・ジヨン』のチョ・ナムジュ、『フィフティ・ピープル』(拙訳、亜紀書房)のチョン・セラン、『舎弟たちの世界史』(小西直子訳、新泉社)のイ・ギホなど29人が参加しています。

 そのタイトルは『メランコリー・ハッピーエンディング』。この言葉は朴婉緒の世界観をよく表しています。人生につきものの避けられない悲しみを彼女だけに可能な文体でじっくり描くとともに、最終的には、前を向いて歩み出そうとする人の背中を押してくれるような作品が多いのです。このような追慕作品集が出版されることを見ても、朴婉緒が得ていた信頼のほどが想像できるでしょう。

 私が好きなのは、彼女の作品には英雄的な人物が登場せず、面白い人物や凄みのある人物が、それと同じくらい面白い著者の筆によって、ときには呆れているような視線で描かれている点です。それもまた、熱狂の対象が何度となく入れ替わりながら発展してきた韓国の知恵ではないかと思うのです。

 悲惨、苛烈という言葉を通り越してしまうような戦争の現実を煮立てて煮立ててなお残った無限の人懐しさ、そして矜持のようなものが、朴婉緒の真骨頂だと思います。

 そして、朴婉緒の小説のみならず、その年代の女性たちが伝えた朝鮮戦争の体験は、例えばファン・ジョンウンなど、現代の30―40代の女性作家たちの小説にも綿々と受け継がれています。それは、現代の文脈の中でも確かに脈打つものとして存在しているのです。

 最後につけ加えますと、朴婉緒の小説は非常に面白いのですが、最初に読む韓国文学としては少々手ごわいかもしれません。もっと若い世代が書いた小説を読んで興味を持ったら、「この登場人物のおばあちゃんやおじいちゃんの時代はどうだったのかな」というような気持ちで読んでみると、楽しめると思います。

(斎藤真理子)

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