痴漢被害で言えなかった「助けて」はどれほどあるのか。理不尽な痛みを処理する心の動き

文=みたらし加奈
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——LGBTQ+、フェミニズム、家族・友人・同僚との人間関係etc.…悩める若者たちの心にSNSを通して寄り添う臨床心理士が伝えたい、こころの話。

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 「痴漢」と聞いたとき、あなたは何を想像するだろう。きっとこの記事に目を通してくれている方の中には、その被害に遭ったことがある人もいるかもしれない。私にとって「痴漢」という性暴力は身近なところに存在していたし、同じような感覚を持っている人は少なくないと感じている。

<高校生の時、学校に行くと、必ずと言っていいほど誰かが「痴漢に遭遇した」話をしていた。しかし、それらの話は大抵が「性暴力」として受けとめられているわけではなく、「気分が悪かった話」として、ただの日常の1コマとでも言うかのように軽く話されることだってあった。時には話の“ネタ”のような感覚を持っている子だっていた。そして私自身も、そのうちの1人だった。>

 以前の記事で、こう綴ったように、私はこれまでずっと「痴漢=性暴力」という認識を持てないでいた。

 それでもなぜか心のどこかでは「隙を見せたら被害にあってしまうかもしれない」という強迫観念にかられてしまっていて、電車に乗る時はドアの近くに立ってみたり、無防備に背中を見せないようにしていた。

 それは自意識過剰でもなんでもなくて、もしかしたら他の人も持っているような感覚で、実践していることなのかもしれない。その場に存在しているだけで「搾取されてしまうかもしれない」という不安感を持っているのは、必ずしも私だけではないと思うのだ。

 本来であれば守られる立場であった学生時代の私が、自分で「自分の身体」を守らなければならなかったことを思うと、もしかすると今も日本には同じような思いを抱えている子たちがいるのかもしれない……と胸が苦しくなってしまう。

 「痴漢は犯罪です」というポスターの存在は知っていても、「痴漢は性暴力です」と教えてくれる大人はいなかった。「短いスカートをはいているから被害に遭うんだ」「あなたに隙があるからいけないんだ」と責める人を見たことはあっても、「あなたは100%悪くない」と断言してくれる大人もいなかった。例えロングスカートを履いていたとしても、相手に“隙”を見せていなかったとしても、「絶対に性暴力を避けられる」という確証はどこにもない。

 しかしそんな不確かな言説を、まるで「被害者に落ち度があった」かのように力強く語る人たちが多いことも現実なのだ。自分自身で意思を持って自衛することは間違いではないにしても、性暴力被害を受けてしまった人に「自衛していたかどうか」を問うことの暴力性に、私たちは真剣に向き合っていかなければならないと感じている。

 性暴力の被害者が「自分にも落ち度があったのではないか」と理由を見出そうとしてしまうことは、ある意味、自然な現象だということも併せて記載をしておきたい。

 これはあくまで私の持論であるが、性暴力とはその被害を受けてしまう人にとって“理由”なく突然降ってくる大きな痛みである。しかし突然の痛みに、「せめて理由があれば納得できるかもしれない……」と自分の中に“落ち度”を探そうとしてしまうのだ。

 もちろん納得する必要も、「理由」を見つける必要もないはずなのに、理解しがたい出来事にどうにか説明がつくように、処理してしまうのかもしれない。そして最悪の場合、周りの人に「理由」を問いただされることだって大いにあり得る。「私に非があったんだ」と自分を納得させて、誰にも打ち明けずに蓋を閉じてしまったケースが、この日本にはどれほどあるのだろう。周りの人や自分自身に口を塞がれてしまって、言えなかった「助けて」はどれほどあるのだろう。

 また「痴漢」について話すときに、「冤罪被害」について同列に語られてしまう風潮にも私は疑問を覚えている。一見同列のテーマと思われがちな「痴漢被害」と「痴漢冤罪被害」は、実はまったく別の事案であり、「冤罪被害を許さないこと」と「痴漢を許さない」ことは両立する。仮に冤罪被害が起こっているのであれば、それはしっかりと捜査されるべきことであって、痴漢と同様にそれを行なっている加害者に非があることには間違いない。「痴漢被害」と「冤罪被害」を私たちが同列として扱ってしまうことは、双方の被害者の口を閉ざしてしまう危険性があるのだ。

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