タイの反政府デモが、タブーとされてきた王室改革に踏み込んだ理由

文=外山文子
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過去のデモと何が異なるのか

 まず今回のデモが、どのような点で過去のデモと異なるのかについて確認してみよう。

 タイ政治史において、大規模な大衆デモが実行された時期は、1973年、1976年、1992年、2006年、2008年~2014年、2020年となっている。いずれも時の政権に対する反対運動であったが、デモ隊が要求していた内容を子細に見ると相違点が存在する。

 1973年は軍事政権に対する反発であった。1992年は非民選首相(元陸軍司令官スチンダーの首相就任)に対する反発、2006年はタックシン首相の強権政治に対する反発であった。これに対して、2008年から数年間に渡り継続した「赤シャツ」対「黄シャツ」の対立は、タックシン派と反タックシン派の政争だけではなく、クーデタによる民選政権の打倒、裁判所による非中立的な裁定(二重基準)を巡る対立でもあった。この大衆デモでは、「民主主義」「法の支配」といった原理・原則が中心的な争点となった。

 2020年の学生デモでは、更に一歩踏み込んだ争点が提示された。「民主主義」や「法の支配」といった重要な原理・原則を歪曲してきた「基盤」自体に対する改革要求である。その基盤とは、「国王を元首とする民主主義政体」である。同体制に対する改革要求は、タイ政治最大のタブーである王室批判を避けることができないため、長年に渡り多くのタイ国民がこの点について問題視しつつも、表立って声を上げることができなかったテーマである。

 今回のデモは、参加者の構成も過去のデモとは異なる。1992年、2006年、2008年~2014年のデモでは、学生のみならず多様な市民が参加した。特に1992年デモ以降は、NGOや政治家が主導的な役割を果たした。これに対して今回は、デモ参加者の中心は大学生や高校生である。野党政治家については、2月に憲法裁判所により解党された新未来党の政治家がデモを支持しているものの、タックシン派とされるタイ貢献党は学生デモとは距離を置いている。

タイ君主制の何が問題か

 前述のように、学生たちの要求の本丸は王室改革である。では、タイ王室の何が問題なのであろうか。タイ政治の基盤となってきた「国王を元首とする民主主義政体」とは何であるのか確認してみよう。

 現在、世界には27の王室が存在するとされる。そのうち多くの国では立憲君主制が採用されている。タイ王室も1932年立憲革命以降は立憲君主制であり、原則としては、主権は国民が保有し、国王は憲法によって統制される存在のはずである。ところがタイ立憲君主制は立憲革命後、徐々にその性質を変化させてきた。1950年代末から1970年代初頭の冷戦期に構築されたのが、「国王を元首とする民主主義政体」というタイ独特の政治体制である。同政治体制の下では、主権は国王と国民が共同所有するとみなされる。憲法の文言では、主権は国民が所有するが、国王が国会、内閣、裁判所を通じて主権を行使するという玉虫色の表現がなされている。

 タイを代表する保守派公法学者は、主権について以下のように説明する。

「主権は、国王と国民に存在する。国民が主権者である他国の憲法とは異なる」「1932年に国王が主権と憲法を下賜したが、法的には国王と国民がともに主権の保持者である。よってクーデタが起こると主権が国王に戻る」「実際の政治権力はクーデタグループにあるが、国王が憲法に署名したときに主権が再び国民に戻される」「主権は、国王の下にないときは、国王と国民の下にある」

 非常に滑稽な説明であると思われるが、実際にタイでは上記のような屁理屈の下で、先代のプーミポン国王が幾度も軍事クーデタに正当性を付与してきた。軍事クーデタが起きるたびに国王が裁可を与え、恒久憲法は破棄され、軍事政権によって暫定憲法が制定されてきた。このようにしてタイ民主化は幾度も頓挫し続けてきた。

 本稿の冒頭で触れた王室改革10項目の中で、最重要項目は最後の「国王によるクーデタ承認の禁止」である。学生たちは、国王によるクーデタ承認こそが、タイ民主化の最大の障壁であると認識している。

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