縛られて美しいのは、そして縛られて死んで美しいのは、あくまで男でした。その志向は「仮面の告白」にも見られ、三島少年は白銀の鎧(よろい)を身につけたジャンヌ・ダルクが女であることを知って、
「この美しい騎士が男でなくて女だとあっては、何になろう」
と、いたく落胆しています。
心身が柔弱な女を縛ったとて、そこに美は生まれない。縄なり制服なり、縛る側に拮抗するだけの強さと硬さが、縛られる側には必要だったのです。
少年時代のタイツ姿で殺される王子への憧憬から始まり、楯の会の制服で自決して人生を終えるまで、三島の「縛られて死ぬこと」に対する望みは、貫かれているように見えます。十五歳の時に書いた「凶(まが)ごと」(5)という詩は、
わたくしは夕な夕な
窓に立ち椿事(ちんじ)を待つた、
凶変のだう悪な砂塵が
夜の虹のやうに町並の
むかうからおしよせてくるのを。
と始まります。人生を攪拌するかのような椿事を窓辺で待つ、というのは彼の作品に度々出てくるイメージですが、この時の「わたくし」を拘束していたのは、ただ彼が身を置いていた家ばかりではないのでしょう。この頃の日本には、身分制度やら戦争やら、人を緊縛し、束縛するものがたくさんありました。十五歳の少年は様々なものに縛られることによって、「凶変」がもたらす物語への期待を醸成していたのではないか。
しかし戦争が終わると日本は民主化し、国が人を堂々と縛ることはできなくなります。三島自身も大人になって、少年の頃のように、縛られて当然の存在ではなくなってきました。そうして彼は、次第に自らの手で自らを縛る道を歩むようになるのです。
細江英公による写真集「薔薇刑」には、褌姿で荒縄に縛られている、三十代末の三島の姿が。また四十歳の時に映画化された「憂国」では自身が主演を務め、二・二六事件当時の近衛歩兵一連隊中尉の制服を着て、血まみれで死ぬシーンを演じています。
四十二歳の時は、陸上自衛隊富士学校に体験入隊。「三島由紀夫と自衛隊」(杉原裕介・剛介)によれば、体験を終えた後の昼食会に、三島は一等陸尉の階級章がついた制服を着て登場し、周囲を驚かせています。皆と同じ制服を着たかったということで、富士学校内の洋服店が見本として飾っていたものを買い取ったというのです。そして死の直前、篠山紀信によって撮られていたのは、縄で手首を縛られ、裸体を矢で射られている、あの有名な写真「聖(サン)セバスチャンの殉教」……。
死を迎えるまでの数年間、このように制服やら縄やらによって自ら進んで縛られ、理想とする死の予行演習の数々を行なっていた三島。とうとう昭和四十五年十一月、自らがつくった制服姿で、自刃しました。
しかし、
「服装は、強いられるところに喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである」
との言葉を思い出すと、三島の最期が彼にとって理想的なものであったのかが、わからなくなります。数々の予行演習から自刃まで、彼は拘束衣を着続けたけれど、それは「強いられた」ものではなかった。縛られ、射られることを望み続けながらも誰も彼を縛ってはくれず、最後に自分で自分の制服をつくらざるを得なかったところに、彼の最大の不幸があったのではないかと私は思います。
【参考文献】
(1)『仮面の告白』(新潮文庫、1950)
(2)『若きサムライのために』(文春文庫、1996)所収
(3)『決定版 三島由紀夫全集 第35巻』(新潮社、2003)所収
(4)『決定版 三島由紀夫全集 第34巻』(新潮社、2003)所収
(5)『決定版 三島由紀夫全集 第37巻』(新潮社、2004)所収
(※本稿の初出は『yomyom vol.65』(新潮社)です)