ナイキCMは「日本人を悪者にしている」のではない 確かに存在する、構造的差別を知る

文=堂本かおる
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真綿で首を絞める、ささやかな差別

 黒人とのミックスの少女は外観で差別される。縮れた髪を珍しいモノとして弄られてしまう。髪を触った級友たちの表情には、明らかに自分たちの直毛が「普通」であり、黒人の髪質は劣るという思い込みが見て取れる。

 黒人には一見ポジティヴなステレオタイプもある。「スポーツと音楽ダンスに秀でている」だ。CMに登場する少女はサッカーを好んでいるが、スポーツや音楽が苦手な黒人もいる。日本で黒人が「スポーツは苦手」「ダンスが苦手」と分かった時の周囲のあからさまな驚きと落胆に、彼らは耐えなければならない。日本で生まれ育ち、英語を話さない場合も同様だ。

 アメリカのように人種差別が理由でマイノリティが射殺される事件は、今の日本ではまず起こらない。だが、日々の「ささやかな差別」は人をどこまでも追い詰める。銃で撃たれる代わりに、真綿で首を絞められるのだ。

 そんな人生を受け入れる理由はどこにもない。偏見と差別をなくし、自分が自分のままでいられる、つまり外観であれ、何かの能力であれ、自分を誇り、自分を好きでいられ、人にどう思われるかビクビクせずに済み、 いつも笑顔でいられる社会にしたいと3人の少女たちが願い、考え、生き方を変えるのは当然だ。少女たちはスポーツに政治を持ち込んでいるわけではない。自分の居場所を求めているだけなのだ。

 これが「アメリカのコピペ」なのだろうか。逆に「日本的な解決法」なるものがあるのだろうか。あるとすれば、本人たちに苦しい思いをさせる前に日本人が(CMに登場する少女たちも国籍もしくは文化的に日本人なのだが)偏見を捨て、差別を止め、そうすれば「和やかに」解決するだろう。だが、それには日本人側の差別への自覚と変化への行動が必要だ。

「沈黙は暴力」

 先日、大坂なおみ選手はビーツ・バイ・ドレのCMに、白いビーズで「Silence is Violence(沈黙は暴力だ)」と描いたブレイズ・ヘアで登場した。「自分は差別などしていない」と沈黙を決め込むのも差別であり、ひいては暴力なのだ。マジョリティの何気ない言葉や行為、当たり前と思われている社会のシステムに、マイノリティは傷付きながらも多くの場合、何も言わない。いや、言えない。抗議すれば、さらに不利な立場に追いやられるからだ。

 つまり差別とは差別する側の問題であり、声を上げなければならないのは本来はマジョリティ側だ。ナイキとCMの少女たちが「差別を声高に叫んでいる」と感じるとすれば、それはマジョリティである自分が沈黙を決め込んでいるからだ。CMは「日本人を悪者にしている」のではない。日本国内では圧倒的なマジョリティである日本人にマイノリティの心の叫びを届け、差別解消への行動を起こせと促しているのである。

 目の前に溺れている人がいるのに助けないのであれば、溺れている人の姿が痛烈に心に刺さる。見なかったことにしたい。聞こえなかったことにしたい。しかし自分はここ(日本)から動けない。ここに居続ける既得権のある自分を、お前たちはなぜこんなに嫌な気分にさせるのだと怒りが湧く。ナイキを批判する人たちは、そういう人たちなのだ。
(堂本かおる)

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