為政者を「がんばっている」と許したり「なんだかかわいい」と喜んだり

文=トミヤマユキコ
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GettyImagesより

(※本稿の初出は『yomyom vol.65』(新潮社)です)

 前回の原稿を書いてから半年ほどが経過し、再びわたしのターンがやってきた。この半年間を振り返ってみたが、新型コロナウイルスに日々の生活を左右されていた記憶しかない。

 誰もが気軽に検査できる環境の整備とか、ワクチンないしよく効く薬の完成とか、半年前に「こうだったらいいのにな」と思っていたことの実現はまだまだ先みたいだ。現状、東京都の新規感染者数は3ケタ/日が当たり前、集めた雨ガッパは行き場を失い、対面授業が5割に満たない大学は晒し上げるぞと言われ、未知のウイルス漂う国内をやたらと安く旅行できる「Go To トラベルキャンペーン」が始まった。コレジャナイ感がすごいというか、はっきり言ってクソである。

 しかし、クソだと言えるわたしはまだマシな方で、この暮らしに順応し、諦め半分で生きるひとが増えていると感じられてならない。積極的に癒しを求めるでもなく、その日その日をどうにかやり過ごしている感じ。国から10万円をもらって一瞬テンションが上がったあとは、ずっとダウナー。手洗い、うがい、引きこもりの暮らしがただただ続く……。まあ、わたしも瞬間湯沸かし器みたいな腹の立て方をして、クソだと罵ったり、署名したり、募金したりしているだけで、あとの時間はなんとも言えないダルさとともに過ごしているのだから似たようなものかもしれない。情けないことに、コロナ以前と比べてふわふわした生き物の動画を眺めて時間を溶かすことが増えた(泣)。新型コロナ、罹患しなくても恐ろしい。

フワちゃんの態度は失礼なのか?

 明るい見通しほぼゼロの日本にあって、フワちゃんだけが元気いっぱいというかナチュラルハイだ。地上波のテレビ番組やユーチューバーのチャンネルをほぼ観ないわたしですら、彼女の存在を知っている。恐ろしいほどのハイテンションと相手を選ばないタメ口でその場の空気をがらりと変えてしまう彼女は、久し振りにメディアに登場した「規格外の女」である。

 フワちゃんを見ていると思い出すのは、かつて一世を風靡した篠原ともえである。わたしが高校生だった90年代後半、世は女子高生ブームであり、コギャルたちのアイコンは安室奈美恵だったが、一部のカルチャー好き女子たちは、篠原ともえに傾倒し、アムラーよりシノラーになりたがった。数の上ではアムラーに及ばずとも、「ふつう」が窮屈で、自己表現の大切さを信じる女子にとって、篠原ともえは本当にカッコいい女の子だったのだ。

 ランドセルを背負い、おもちゃみたいなアクセサリーをたくさん身につけ、ギャーギャーとかしましくトークする篠原ともえの姿には、フワちゃんと相通ずるところがある。フワちゃん自身も篠原について「ジャパニーズカワイイの師匠だし、神」と発言していることから、影響関係は明らかだ。しかし、篠原があくまでひとに脅威を与えない「バラドル」「テレビタレント」の立場を守っていたのとは違って、フワちゃんはYouTubeを主戦場とする「女芸人」であり、「テレビ的であること」へのこだわりが少ない分、ハラハラするようなことも平気で言う。

 このことについてわたしの教え子たち(大学生)に聞いたところ、彼女の態度はとても失礼だし見ていられないという意見がけっこうあった。あの破天荒ぶりが支持されているものとばかり思っていたのでちょっと意外だったが、わたしは教え子たちが嫌がる彼女の「失礼さ」をもっと見たいし、見るべきだという気がしている。

 というより、そもそも、フワちゃんのあの態度は失礼なのか? ということを、わたしたちは一度ちゃんと考えた方がいい。

 例えば彼女は、ある番組で坂上忍に「フワちゃんって恋とかするの?」と訊かれて「あんた、この関係で教えてあげるわけないじゃん」と答えている。また、自分が質問に答えたからという理由で「私に聞いたから1個貸しある。教えてよ、ギャラ」と坂上&ダウンタウンに迫ってもいる。彼女のふるまいは、番組に(もっと言えば芸能界に)存在している暗黙のルールを思いきり脱臼させるものだ。番組ゲストは司会者に従うべきとか、芸人ならば先輩の顔を立てるべきとか、そういったルールをいったんナシにして、フラットな人間同士の関係を作りだすのが彼女のやり方なのである。

 ただそれだけのことで、一種独特の緊張状態が作り出せるのはなぜか。それは、彼女の態度が、テレビ業界が長らく大切にしてきたホモソーシャル&マッチョイズムの逆を行くものだからだろう。テレビに出るひとも、観るひとも、肩書きやら芸歴やらを取っ払って対等な関係になれるはずなどないと思っているから、フワちゃんのやり方に戸惑うのである。それは、無意識のうちにホモソ&マッチョを受け入れているからこその戸惑いとも言える。

 フワちゃんを見ていると、尊敬や畏怖の念を相手に抱かせなければ己の存在を確かにできないと怯える者だけが、彼女を失礼なひと認定するんじゃないかと思えて仕方がない。と同時に、彼女に思いも寄らない形で距離を詰められ、これまでのやり方が通用しないと観念し、つい相好を崩した芸能人からは、「ただの自分」を肯定された喜びと照れが透けて見えるようでおもしろい。鎧を剥ぎ取られ、居心地の悪さを感じつつも、ありのままのあなたもおもしろいし魅力的なのだと証明された者たちの、あの頬の紅潮たるや。参ったな、でも嬉しいな。そんな顔をしている。酌婦や舎弟にチヤホヤされる時とは違う笑顔だ。それをテレビに映したということだけで、フワちゃんはもう十分に革命的なんじゃないだろうか。

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