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女性が男性と同居し始めたら、とくに結婚でもしようもんなら、「女性は男性のために料理をし始めるはずだ」と思われます。私は彼氏と同居し始めた直後、母に聞かれました。「朝ごはんどうしてるん?」と。
我が家は現状、週1〜2の頻度でお互いが晩ごはんを作り、あとはそれぞれで食べるというスタイルになっていて、朝ごはんは完全に別々です。そもそも彼が家を出る時間には私はまだ寝ているため、朝ごはんを一緒に食べることはありません。
以下、母と私の会話です。
私「一緒に朝ごはん食べることなんてないで」
母「えーそうなん。サンドイッチでも作ってあげればいいのに」
私「なんで?」
母「だって、○君、これまでお母さんに作ってもらってたんじゃない?(私と同居するまで彼は実家に住んでいたため)」
私「だとしたら30歳で親に朝ごはん作ってもらってるって甘えすぎでは?」
母「えー厳しいなあ」
私「だって、もし私が今実家に住んでたとして、母、私に朝ごはん作るかな?」
母「作らんな。言われてみれば」
私「せやろ」
母は納得し、話題はドラマ『アンという名の少女』にハマっているという話に移行しました。が、その後も母は「晩ごはん作ってるー?」と聞いてきたり、彼氏が週1〜2回ごはんを作っていると知るにつけ、彼氏を大げさに褒め称える、などしたのです。私も同じ頻度で料理をしているというのに!
そういえば(以前も書きましたが)、私の友人は新婚当初、会社の先輩女性に「ごはん作ってないの? それじゃ、旦那さん結婚した意味ないじゃない。かわいそう」的なことを言われてましたっけ。
ことほど左様に、女性が男性と同居し始めたら、料理をはじめとした男性のお世話全般をし始めるはずだしそうするべきだ、と考えて、当事者にそれを言う人は未だに生息しています。それは圧力として、その価値観で利益を得られる男性だけではなく、女性からも発せられるのです。
マイマザーの場合は、私が、「それっておかしくない?」と言えば、「言われてみればせやな」と納得してくれ、それ以上の役割規範を押し付けてくることはないのですが、友人先輩のように押し付け系の人もいるのがつらいところです。
なんでこんなことになるかねーとモヤっていたときに出会った本が、哲学者のケイト・マン著『ひれふせ、女たち ミソジニーの論理』(慶應義塾大学出版会)でした。
ミソジニーは家父長制の法執行機関
ミソジニーという言葉は、最近市民権を獲得しつつあります。女性蔑視、と訳されることもありますが、それだけではミソジニーの本質を見逃してしまうことになりかねません。なぜなら、ミソジニーはすべての女性を蔑視することを意味しないからです。
私自身、ミソジニーの理解を深めることで、「女性が同居している男性のケア(料理・掃除・笑顔で話を聞く・家事をしたら褒める、など)をすべき」という規範の実態をより正確につかめるようになったと感じているので、ここでは本書を通して理解した「ミソジニーとは何か」を簡単に解説していきます。
ミソジニーとは、家父長制の法執行機関であり、女性の隷属を監視し、施行し、男性優位を支えるために働くシステムです。
ミソジニーの機能は、女性に課された社会的役割が遵守されることを監視し、道徳的材や道徳的資源を女性から引き出すことを、そして、務めを無視したり、怠ったり、裏切るものにたいして異議申し立てをすることにあります。
女性に課された役割とは、養育、慰安、世話および性、感情、生殖にかかわる労働を自ら進んで行う、というものです。家父長制においては、「男性にはそれらを女性から与えられる権利がある」のです。
女とは、「与える人」。与えない女には罰がある
誰かに「ごはん作ってないなんて。旦那さんかわいそう」という言葉をかけるとき、それは「女性なら当然行うべき社会的役割を怠っている」と指摘し、家父長制からの逸脱を罰しようということになります。
ミソジニーは処罰と報酬のメカニズムでもあるため、男性のために尽くす女性、いわゆる「内助の功」を過剰に褒め称えもします。家父長制に沿って、女性の本分をわきまえ男性に尽くす場合においては、ミソジニーは賞賛の方へと振れるのです。「ミソジニー=女性蔑視」という素朴な理解ではこの点が見落とされがちですが、ミソジニーは、過剰な「母性礼賛・内助の功礼賛・おにぎりマネージャー礼賛」にもつながっていきます。
換言すると、ミソジニーは、女を「与える女」と「与えない女」に二分し、前者を褒め称え後者を罰する監視システムだとも言えるのです。
家父長制のしもべにとって、女性が笑顔でもてなす感情労働や、慰安、世話、養育を怠ることは、女のくせにありえないことなのです。女の子は笑顔が大切、と言われるのも、女のくせに感情労働を怠ってはいけない、という意味でもあります。
女は与える存在であるべきですから、与えてもらおうとするのは言語道断です。女性がそういった道徳的材を他者から与えてもらおうとすることを、ケイト・マンは、「サービスすべき存在のウエイトレスが、仕事をサボってサービスを要求しているような不正義を行なっている」と(一部の人から)みなされると表現しています。
不正義を行なっているのは、本来与えるべきものを与えない女なのですから、「社会的に高い地位について家事育児を外注する女」「母になったくせに子どもの世話に集中せずに、すぐに職場復帰しようとするタレント」「母親のくせに自分のルックス維持やおしゃれにかまけている派手な女や美魔女」などには冷たい視線と罰を与えるのが妥当であり、正義は家父長制から外れた女を罰する側にある、というわけです。
女を人間として見ていないのではなく、「与える人間」として見ているからこそ
興味深いのは、著者が、「ミソジニーは女性を人間として見ていないからこそ発生するもの」という考えを、ぶった切っている点です。
男性だけでなく、女性もミソジニーを持ち得る(※1)わけですが、では女性自身が自分のことを人間として認識していないのか、というと、そんなわけはありませんよね。ケイト・マンは、ミソジニーは女性を主体性のある人間とみなしているからこそ、監視し、取り締まり、処罰し、ときには褒め称えて管理する必要があるのだ、と指摘しています。
(※1 身勝手や怠慢のせいで女性の義務から逃れようとしている女性の存在は、それ以外の女性の仕事を増やすことになるとみなされる。また、自己価値やアイデンティティを揺るがす脅威となりうるため、女性から女性への監視・罰というミソジニーは発生し得る)
ミソジニーの凡庸さ故の、根絶の難しさ
ミソジニーが家父長制の法執行部門であり、女性を人間としてその主体性や自主性を認め、また、褒め称えるケースもある以上、女性から女性に対して、あるいは性別を問わず女性を愛し尊敬している人でも、ミソジニーを内在させている可能性はあります。
つまりミソジニーは女性を憎悪している一部の男性だけのものではなく、とっても「凡庸」なもなのです。同時に、家父長制がある限りはミソジニーも温存されるでしょう。ミソジニーとは無縁の世界で生きていきたい私としては、これは困った問題です。
さらに残念なのは、「ミソジニーを問題だと指摘すること」はさらなるミソジニーを引き起こすことになる、という点です。ミソジニーを指摘することは、「与える女」という規範の逸脱にほかならないので、監視し、罰しようという動きが活性化してしまいます。
かといってミソジニーを野放しにしていても、事態が改善することはありません。個人レベルでは、ミソジニーな言動に直面したときに、自分の意見を述べて立ち向かうことはできます。しかし、家父長制が制度や法律によって構造的に支えられている限り、草の根レベルの意見表明は根本的解決にはならないのも事実です。
どうしたらよいのか、答えはまだ見つかりません。今日のところは、「女性にだけ、料理できるの? してるの?」って聞くの、もうやめませんか、とだけ提案しておきたいと思います。
(原宿なつき)