
『ギルダ』(Happinet)
チャールズ・ヴィダー監督による1946年のアメリカ映画『ギルダ』はフィルム・ノワールの古典と言われる作品です。フィルム・ノワールというのはフランス語で「黒い映画」を意味します。第二次世界大戦の頃からアメリカで作られるようになった犯罪映画を指す言葉で、陰と光の対比をうまく使ったモノクロの映像や、犯罪者や私立探偵が入り乱れるやたら複雑な展開が特徴です。もともとはアメリカの渋い犯罪ものを指す言葉でしたが、その後フランスや香港の映画にも使われるようになり、今では一般的なジャンル名になっています。
ハリウッドのフィルム・ノワールにつきものなのがセクシーでワルいファム・ファタルです。ファム・ファタルは「運命の女」という意味で、男を破滅させる魅力的な女を指します。『ギルダ』のタイトルロールであるリタ・ヘイワースが演じるヒロインはこのファム・ファタルの典型……と言われているのですが、実はこのギルダ、現代の観客からするとどこに悪女要素があるのかよくわかりません。今回の記事では、ギルダのキャラクターについてフェミニスト批評の観点から掘り下げみたいと思います。
気の毒な美女
『ギルダ』は、魅力的なギルダをめぐるジョニー(グレン・フォード)とマンスン(ジョージ・マクレディ)の葛藤を描いた物語です。タイトルは『ギルダ』ですが、実はギルダよりもジョニーがメインの視点人物で、どちらかというと男2人のもめ事の話です。
ジョニーはマンスンのカジノでマネージャーとして働くことになりますが、マンスンは電撃結婚し、輝くばかりに美しい花嫁ギルダを連れて帰ってきます。ところがギルダとジョニーの間には過去に何か色恋沙汰があったようで、ジョニーはギルダへの愛憎とマンスンへの忠誠の間で次第にバランスを失っていきます。
長く豊かな髪をかきあげ、ゴージャスなドレスで堂々と歩き回るギルダは古典的なファム・ファタルと言われています。しかしながらこの映画では、ギルダは自分から人を陥れたり、愛している相手を手ひどく裏切ったり、悪質な犯罪に手を染めたりはしていません。やたら美人で陽気に遊ぶのが好きだというだけで、倫理的にワルそうなことは全くしません。悪巧みといえば、本命の愛する男をじらすためにお色気を振りまいてその場のみんなを魅了したり、ちょっとばかり他の男に優しくしてみせたりする程度のカワイイもので、このくらいの恋の手管なら当たり障りのないロマンティックコメディのヒロインだっていくらでも使います。
ギルダは落ち込むとあまり考えずに行動してしまうクセがあるようで、ジョニーとの恋が終わった後に落ち込んで「反動」でマンスンと結婚したことを後悔しているという台詞があります。ヤケを起こした結果、軽率な結婚をして反省するなどというのは、悪女にはふさわしくない人間味のありすぎる行動です。ギルダは夫が経営するカジノの従業員などに対しても偉そうにしないし、ショーガールとしての仕事がある時はきちんと舞台を盛り上げます。全体的に、ギルダは欠点はいろいろあっても真面目な女性です。
こんなギルダをファム・ファタルに仕立て上げているのは周りの男たちです。ジョニーは始終ギルダを誤解し、その本心を疑ってひどい態度をとります。終盤にジョニーが夫マンスンの失踪で寡婦となった(と思われている)ギルダと再婚し、新妻を監視していじめる展開は、ギルダの視点で描けば家庭内の虐待を描くホラーになるのでは……というような恐ろしさです。
ギルダはたまに無分別なことをすることはあっても基本的には機転の利く大人の女性なので、きちんとジョニーと本音で話して夫婦関係を改善しようとし、無理だとわかると家を出てショーガールとして自活します。後にギルダの最初の夫であるマンスンもかなり異常な性格の人物だったことがわかり、ギルダは2回もろくでもない男と結婚してしまった気の毒な女性であることがわかります。男たちは美人すぎるギルダを利用するか、勝手に幻想を出しているだけで、ギルダ自身にファム・ファタルらしいところはありません。『ギルダ』は、幸せになりたいと思っているヒロインが男たちから勝手に悪女に仕立て上げられる、作られたファム・ファタルの物語なのです。
最後に自分の誤解に気付いたジョニーは、ギルダに謝罪して関係の再構築を求めます。現代の映画なら、ギルダは虐待的な夫とやり直すのを拒んで出て行くところだろうと思いますが、40年代の映画はさすがにそこまではいかず、ジョニーとギルダはよりを戻します。今後のギルダの人生が心配になるような終わり方ですが、ファム・ファタル幻想を利用しつつ、やんわりと「ファム・ファタルは男性によって作られるものである」ということも描いている『ギルダ』は、この時代の映画としては個性的だと言えるでしょう。
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