けれども山本氏は、この「日本人の独特の民族性」規定にのっかって、よせばいいのにずんずん大展開をはじめてしまいます。
<内向的民族である日本人は、北欧などのドイツ語圏諸国と似ている。仲が良いスウェーデンの化学者は、私と性格が似ており、無口で愛想がなかった。ヨーロッパでは内向型のスウェーデン人や日本人は寡黙の旗頭、外向型のラテン系の民族は饒舌の旗頭と言われている。内向的な民族は単独を嫌い、集団の一員になることを好む>(44頁)
サンプルは「仲が良いスウェーデンの化学者」ひとりなんですか、もしかして? 先に見た『ユングのタイプ論に基づく世界諸国の国民性』と同じく、自分の限定的な体験を基礎にして、一挙にヨーロッパの諸民族の分類から好みまでを一気呵成に展開しています。さらにそこから……
<日本人は集団の一員となることで、無私になる。これは、欧米でいう「客観的規範に対する無私」ではなく、「他人に対する無私」である。この点でも外向型民族とは全く異なっている。このことが様々な社会現象への個人の対応の基盤となる>(45頁)
<今回の新型コロナウイルスに対する日本人の対応は、上記の内向型、感覚型、非論理的な日本人の性格で見事に理解できる。新型コロナは日本人を心配症にさせ、法規で縛らなくとも、道理を原点とする「自粛」で皆が一致団結して新型コロナに向かっていった>(46頁)
――などなど、別に「内向型、感覚型、非論理的」でなくても説明できる事柄を、すべて「日本人の民族性」に結びつけていきます。それは、例えば戦時中の「滅私奉公」的な「無私」や、新型コロナ禍での「自粛」といった社会的な事柄を、具体的な政治的制度や社会的関係をすっとばして、すべてを「日本人の民族性」によるものにしてしまっているわけです。
こうした超テキトーな「日本文化論」にアタマが慣れてしまうと、あらゆる社会問題について「日本人の民族性」あるいは「日本人の気質」に原因を求めてしまい、諸個人の主体性を問わなくなるばかりか、政治的制度や社会的関係の具体的な変革に向かわなくなってしまいます。「そういう民族性だからしょうがない」=現状肯定にしかならないのです。
それがよくわかるのが、この『日本人は論理的でなくていい』を絶賛した櫻井よしこ氏の書評です(2020年10月25日付産経新聞→リンク)。
彼女はこう書いています。
<本書は最初の1ページから私を幸せにしてくれた。いまのままの「日本人としての私」でよいと言明しているのである。日本人だから感じとり、内向し、そろりそろりと考えているのであり、外向的かつ攻撃的で、論理の立て方も切り口も鮮やかな西洋諸国の人々と、そこが違うだけなのだと諭している>
櫻井よしこ氏は本書を読んで「幸せ」になったんだそうです。見事に「いまのままの「日本人としての私」でよい」という現状肯定メッセージを受け取っていますね。そしてそのあとに続くのが、こんな説教なのです。
<日本人は今のままでもっと自信を持ってよいのだ。森羅万象の美しさ、怖さ、面白さ、不思議さをひと呼吸ごとに吸い込み、とっぴでよいから大きな夢を描く。諦めずに進めば、夢は必ず実現する>
うわあ……。根拠の曖昧な「民族性」論から出発した「日本人論」が〈「日本人」としての肯定感〉を与え、さらにそこから、自己啓発セミナーとかヤバい企業のスパルタ新人研修みたいな、妙にポジティブな精神主義を導きだす。そんなしくみを、私たちはいま目撃しているのです。
(早川タダノリ)