菅政権幹部から相次ぐ一貫性なきコメント。背景にあるのは、日本を支配する「ムラ社会の掟」

文=加谷珪一

社会 2020.12.24 10:00

GettyImagesより

 新型コロナウイルス対策が迷走に迷走を重ねている。最大の要因は政権幹部による発言に一貫性がないことだが、実はこの話は、政権幹部に限ったことではない。日本は、もともと論理の一貫性が軽視される社会であり、意識せずに私たちも同じことをしている可能性がある。

 コロナ対策を担う政権幹部がこの状況でよいワケはなく、一連の言動は批判されても仕方のないものだが、日本人全体が変わらなければ、根本的な解決にはならない。

キャンペーン停止を表明したその日に8人で会食

 政府は2020年12月14日、これまで推進してきたGoToトラベルの継続を断念し、一時的にキャンペーンを停止すると発表した。感染が全国的に急拡大する中、GoToトラベルを継続することについては賛否両論があったが、問題はそこではない。国民がもっとも困惑しているのは、政府関係者の発言に一貫性がないことだろう。

 菅氏はコロナ対策について、専門家の意見を聞きながら判断すると説明してきた。最終的な決定権は首相を中心とした政権幹部にあることは明白だが、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会がGoToトラベルの一時停止を提言している以上、それとは異なる決断を行う場合、当然のことながら、合理的な理由について説明する必要がある。

 政府の専門家がGoToの一時停止を提言していながら、一方ではGoToは継続すると説明し、その後、一転してGoToを一時停止ということでは、国民が混乱するのは当たり前のことである。

 だが、問題はそれだけにとどまらない。

 菅氏が、GoToトラベルの一時停止を表明したのは12月14日だが、その夜に8人以上という大人数でステーキ店で会食したことが明らかとなった。これまで政府は、5人以上の会食や忘年会を控えるよう国民に何度も要請してきた。ところが肝心の首相が、GoToトラベル一時停止を表明したその日に、8人以上の会食を行っていたことから、多くの国民があっけに取られた。

 さらに困ったことに、政権幹部から相次いで意味不明のコメントが出てきたことで、火に油を注ぐ状況となっている。

 西村康稔経済再生相は16日の衆院内閣委員会で、「一律に5人以上は駄目だと申し上げているわけではない」と述べて首相を擁護。同日、自民党の下村博文政調会長は「感染拡大に注意して会食することを批判するのは、少し過剰反応かなと思う」「5人がよくて7人はいけないということではない」と少々信じがたい発言を行っている。

 一連の発言を整理すると、政府は国民に5人以上の会食を控えるよう要請してはいるが、首相が8人以上で会食をするのは感染拡大に注意しているので問題はなく、それを批判するのは過剰反応である。一方で政府は引き続き国民に対しては5人以上の会食を控えるよう要請するという内容になる。

 要約すれば、国民には行動制限を要請するが、立場が高い人はその例外であり、批判は許さないといったところだろうか。もしそうでないのなら、会食の人数に制限はないと解釈することしかできないので、感染防止策は事実上放棄したと解釈せざるを得ない。当然のことだが、一連の発言に対してはあちこちから批判が殺到している。

日本を支配するムラ社会の掟

 政権幹部の一連の言動は普遍性や一貫性がなく支離滅裂に見えるが実はそうではない。無意識的かもしれないが、下の者には制限を加えるが、自分は例外であり、批判は許さないという価値観は、政権内部でしっかりと共有されており、コロナという非常事態をきっかけにそれが直接的に表面化しただけと考えた方が自然である。

 普遍性や一貫性を無視するこうした価値観というのは、政権幹部にとどまるものではなく、企業や地域社会を含め、日本における多くの集団に共通するものである。「ムラ社会の掟」という表現がもっともふさわしいが、あらかじめ決められた普遍的なルールに従って集団が運営されるのでなく、人と人との上下関係でのみ集団の秩序が保たれるという、中世以前の前近代社会においてよく見られた仕組みである。

 企業を例にとって考えてみよう。

 ほとんどの企業では、経費を個人的な目的に使うことは禁止されている。これはルールなので、トップでもヒラ社員でも本来なら同じように適用されるはずである。だが現実には、社長や副社長などトップは経費の私的流用が相当程度まで許されており、その下の役員クラスは、社長ほどではないが自由にお金を使えるということが多い(役得という言葉はこの問題の本質を良く表わしている)。部長クラスになると使える範囲が狭くなり、課長、係長と立場が下になるとさらに自由度が減り、平社員はまったくその恩恵にあずかれない。

 つまり前近代的なムラ社会というのは、立場が上になるにつれて、わがままで勝手な行動の範囲が広がっていくのだが、それはグラデーションのようになっており、誰かが独裁的に権力を行使しているわけでないのだ。日本は集団の同調圧力が強い社会といわれるが、一方で、絶対的な独裁者が誕生したことは歴史上一回もない。

 おそらくだが、トップである菅氏も、自由にならないことが多いと不満を抱えており、西村氏はもっと多くの不満を抱え、さらに下に位置する一般国民は不満でいっぱいという状況になっていると考えられる。

結局は構成員全体の問題

 こうした集団のやっかいなところは、トップが暴力的に独裁権を行使しているわけではないという点である。独裁者がいる集団は独裁者を排除すれば一気に問題が解決するが、こうした社会ではそうはいかない。

 全員が被害者であると同時にプチ暴君であり、自身より弱い人に対しては加害者になっているので、最下層にいる人を除けば、全員が共犯者となる。最下位にいる人も、新しい人材が組織に入ってくれば、その新人が最下位になるので、結局は加害者の仲間入りをしてしまう。

 上の言動に不満を抱えている人も、その仕組みを正そうとするのではなく、自分も上になって同じようなことをしたいと考える傾向が強い。さらに言えば、批判されているリーダーに取り入るため、積極的にリーダーを擁護する人が現れてくるので、組織全体で自浄作用が働かない。

 近年、日本の社会システムがあちこちで機能不全を起こしているとの感覚を持っている人が多いと思うが、その根本的な原因は、ムラ社会的な集団運営にある。

 こうした前近代的な集団運営から脱却するためには、上層部の言動を批判するだけでは不十分である。批判されたリーダーが退場しても、再び同じようなリーダーがやってくるからである。組織に属するメンバー全員が認識を改め、ルールに基づいてのみ組織を運営するという原理原則を受け入れない限り、同じことの繰り返しとなる。

 ルールベースの組織運営をメンバーが受け入れる場合には、ルール違反が見つかった場合には、仮の自分の上司であったとしても、それをはっきりと指摘する義務がメンバー全員に生じる。ドライで厳しいが、透明性は高いという、こうした近代的な組織運営について、どれだけの日本人が受け入れられるのかは甚だ疑問である。結局は構成員全体の問題であり、皆の意識が変わらない限り、こうした前近代的な組織は継続してしまう。

加谷珪一

2020.12.24 10:00

経済評論家。東北大学工学部原子核工学科卒業後、日経BP社に記者として入社。野村證券グループの投資ファンド運用会社などを経て独立。経済、金融、ビジネスなどの分野で執筆活動を行う。億単位の資産を運用する個人投資家でもある。

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