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ずっと東北弁をバカにされてきた。
子供のころ、引っ越した先の学校で東北弁を話すと「変なことば」だと言われたので、標準語を話すことにした。
家族も家の外では、当然のように標準語を話していたのでそれが当たり前のことなのだと思った。
洋画をみると、”教養のない田舎者”キャラにはだいたい東北弁風の字幕がつけられていた。
バカにするなんて大げさな、と思うだろう。別にそれによって排除されたり暴力を振るわれたりあからさまな差別を受けたりする訳ではなく、バカにしている人から言わせれば「そんなつもりはなかった」「ちょっとした冗談」というくらいのごく”些細”なことだ。
それに対して私は、ハハ、そうだよねと笑って、そんなことを気にする私の方がおかしいのだ、彼らにおかしいと言われないように喋ろうと努めているうちに、だんだんとそれらしき話し方を覚えていった。
こんなことをふと思い出したのは、つい先日コロナで帰省できないという旨の電話を故郷の祖母にしたときだった。わたしはもう、幼いころ自分が話していたはずのことばを、ほとんど話せなくなっていることに気付いた。
私がいま話しているこのことばは、一体だれのものなんだろうか。
私にはずっと、自分が借り物のことばで話しているような、まるで自分のことばをどこかになくしてしまったような、そんな感覚がある。
これが実は、当たり前のことではないのかもしれないと思い始めたのは、たびたび欧米で議論されている「アクセンティズム(Accentism − 方言・なまりによる差別)」というものを知ってからだった。
(※東北地方の方言は細分化しておりそれぞれに名称があるが、本稿では便宜上それらを指す際一般的によく使用される『東北弁』という言葉を用いています)
自分の地域の方言に誇りを持つ人々
2020年11月26日、フランスの国民議会は方言・なまりに基づく差別は「人種差別の一種」だとして、これを禁止する法案を可決した。
以前、極左政党のジャンリュック・メランション氏が、南西部出身の記者の方言を真似て侮辱した上で「もう少し理解可能なフランス語で質問できる者はいるか」と発言したことは、フランス国内で大きな話題になった。
同じように方言に対する差別が根深いイギリスでも、方言差別禁止を求める声が各所で上がっている。それを間近で見たのは、私がイギリス北部・スコットランドのグラスゴーに住んでいたころだった。
グラスゴーは、英語話者でさえ字幕が必要といわれるほどなまりがきつく、粗野・貧困・早死にのイメージ語られることの多い街だが(もちろんそれだけじゃなくて、素晴らしい音楽やアートもある)、私はここを目指してイギリスに移住した。
目的はただひとつ、グラスゴーなまりの英語を学びたかったのだ。
世界各国のポッドキャストを聞くのが趣味の私はある日、グラスゴー出身のコメディアンが話す番組を耳にした。そのとき、私はその響きをなぜか非常に懐かしく感じた。
そしてこの英語こそが、自分が話すべき英語であるような気がしたのだ。
それはもしかしたら、私の東北弁への未練がそうさせたのかもしれない、といまになっては思う(イギリス北部の方言のリズムや雰囲気は、東北弁に少し似ていると個人的に思っている)
知り合いも誰もおらず一人グラスゴーをさまよっていた私は、ひょんなきっかけから大学の文学クラブに忍びこむようになった。
そこは、グラスゴー生まれグラスゴー育ちの作家の先生のもとで、毎回数人の生徒が短編小説を持ち込んで朗読し、それについてクラス全員で感想を言い合ったり意見をぶつけあったりする、というものだった。
ここで私は、衝撃を受けた。
生徒たちが書いてきた小説は、完全にグラスゴーなまりの英語をそのまま文字に起こしたもので、私は最初、全く読むことができなかった。
例えば、「自分にも全てにもうんざりしてる」という文章は以下のように表記される。
− ahm fed up wae everythin including masel.
(I’m fed up with everything including myself.)
小説を書く際に、方言話者は自分たちが普段使っているようなことばではなく、”正しい英語=標準語”を使うべきだという文壇の暗黙のルールに、彼らは憤っていた。
彼らは、なぜ俺たちの言葉が正しくないという扱いを受けなければならないんだ、俺たちは自分たちの、グラスゴーのことばで傑作を生み出してやるんだ! と気炎を揚げる血気盛んな活動家たちだったのだ。
ここになぜ日本人である私がいることが許されたのか今思えば謎だが、いつも熱気にあふれていた教室の雰囲気を思い出すだけで、心がぽかぽかとあたたまってくるような気がする。
自分たちのことばに誇りをもって邁進していく彼らの姿は、とてもまぶしかった。
(日本でも、方言を使った小説は多く存在するがそれらは標準語に対する抗議としてではなく、表現の選択肢としての意味合いが強いように思う)
差別したりされたり、負のスパイラルから抜け出したい
このように、同じ”英語”といっても、その方言やなまりによって人は人を無意識にランク付けしている。アクセンティズム(方言・による差別)はイギリスの新たな階級制度だと指摘するメディアもあった。
イギリスのクイーンが話すような英語こそが正式なイギリス英語かつヒエラルキーのトップで、様々な方言やなまりは地域によってそれぞれ違った偏見や先入観をもって受け止められている。体感的に、私のような移民が話す英語は、そのさらに下層に位置しているのではないかと思う。
人によっては他の国から来たということが信じられないくらいなまりのない人もいるが、私の英語はいくら努力をしてもジャパニーズイングリッシュ(日本語話者特有のなまりが強い英語)のままだった。
住み始めた当初、私が「サンキュー」「ソーリー」などと言うだけで、「おもしろい」「かわいい」などと友人たちからかわれ、複雑な気持ちになった。
私のアクセントを真似る彼らに、悪意がないことはわかっている。現に私だって、嫌だとも言わず一緒になって笑っているじゃないか。
それでも、私の胸はチリチリと傷んだ。
むかし私は、これとまったく同じことを、人にしたことがあった。
日本に住む外国人の友達がカタコトで話す日本語を、上にあげた彼らと同じように面白がって真似して笑っていた。当時の私は、それをされた方が一体どんな気持ちなのか想像もできず、当の本人も楽しんでるからいいじゃないか、異文化コミュニケーションだ、などと思っていた。
自分がやられて初めて、こんな惨めな気持ちになるんだということを理解した私は、大バカ者だった。
というよりも、よく考えたらこれは私が幼い頃に受けていた東北弁に対するいじめと全く同じことなんじゃないかと、また後から気づいて、さらに悲しくなった。もう大バカ者が過ぎてどうしようもない。
この経験から私が気づいたのは、「差別をする側」は、それを差別だとは微塵も思っていない、ということだった。
たとえ声をあげたとしても、「気にしすぎだよ」「ユーモアセンスがない」「大げさだな」などと言われることが目に見えている。
そういう人たちに、いやそうじゃなくて私は実際に差別を受けたと感じているんです、と訴えたとしたらどうなるんだろう、と想像するだけでゾッとする。そんな思いをするぐらいなら、黙っていた方がラクだ。大勢の考え方を変えるより、私ひとりの考え方を変えた方がずっと早いし、傷つかずに済む。
そう思っていた私を揺さぶったのは、2020年に大きなうねりとなったBlack Lives Matterだった。
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