第二次世界大戦から朝鮮戦争までの「解放空間」を作家はどう描いたか?/斎藤真理子の韓国現代文学入門【5】

文=斎藤真理子
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Getty Imagesより

 韓国文学の翻訳者・斎藤真理子さんによる集中連載・韓国現代文学講座。前回までは、作家たちが朝鮮戦争をどのように生き、その経験を作品にしてきたかを見てきました。

 今回は、1945年8月15日の終戦から、朝鮮半島がふたつに分かれてしまうまでの数年間「解放空間」を作家たちはどんな思いで生きていたかに焦点を当てます。第二次世界大戦下で日本に統治されていた朝鮮半島。終戦で解放されたものの、その後の期間は朝鮮半島の文学にとって非常に大きな分かれ目となったのです。

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 1945年8月15日正午、朝鮮でも、天皇の「終戦の詔」はラジオから流れました。

 当時ソウルで新聞記者をしていた高峻石(コ・ジュンソク)は、この日の午前10時ごろすでに、呂運亨(ヨ・ウニョン)が朝鮮総督府の遠藤柳作政務総監に会ったとの報せを聞いたと記録しています。

 呂は独立運動の指導者の中で民衆の信頼を最も集めていた人物です。遠藤は呂に、治安維持への協力と、日本人の引き揚げに際して生命と財産を保障することを要請し、呂は、政治犯や経済犯をただちに釈放すること、今後の新しい国家建設事業に干渉しないことを条件に要請を受け入れました。その日のうちに呂を委員長として朝鮮建国準備委員会が組織され、全国の行政と治安を担いました。

 高は、日本の無条件降伏が知らされるとともに、それまで職場でほとんどものを言わなかった人が急に流暢な朝鮮語でしゃべりはじめ、街角で人々が誰彼かまわず握手を求め合い、物売りのおばあさんが人々に自分の売り物を分け与えて歌い踊り、「マンセー」と叫ぶ様子を記しています。「マンセー」は朝鮮語で「万歳」の意味ですが、それまでは日本語で「バンザイ」と言うことしかできなかったのです。

 多くの人々が、すぐにも朝鮮という独立国家が生まれると信じたことでしょう。第二次世界大戦で何も悪いことをしなかったわが国が独立することに、何の困難があるのかと。

 しかし同じ理由で、朝鮮の指導者たちは今後を強く危ぶんでいました。民族主義者の巨頭であり、中国に置かれた大韓臨時政府の主席だった金九(キム・グ)は、日本の敗北は「嬉しいニュースというより、天が崩れるような感じ」だったと述べています。そのとき金九は、「われわれがこの戦争でなんの役割も果たしていないために、将来の国際関係においての発言が弱くなるだろう」と述懐せざるをえませんでした。この予感はもちろん的中します。

 8月24日にはソ連軍が平壌に、9月9日にはアメリカ軍がソウルに進駐します。そして、「解放」から「独立」への困難な3年間が始まります。そのロードマップは誰にも想像がつかず、にわかに生じた権力の空白で、朝鮮の各政治勢力が複雑にからみ合い、分裂し、対立する、猛烈な混乱期に入るのです。

 ハワイにいた李承晩(イ・スンマン)、中国にいた金九など独立運動家が帰国、北には若い金日成(キム・イルソン)がソ連の肝いりでハバロフスクから凱旋、南北双方で権力闘争が激化し、呂運亨らが立ち上げた独立国家構想はあっという間に瓦解していきました。

 韓国ではこの、1945年8月15日の「解放」から始まる時期を「解放空間」と呼ぶことがあります。その日から、1948年に李承晩を大統領とする大韓民国と金日成を国家首班とする朝鮮民主主義人民共和国が成立する1948年までの3年間をそう呼ぶこともありますし、1950年に朝鮮戦争が始まるまでの5年間を指すこともあるようです。

 いずれにせよ、ある特定の時間を指して「空間」と称するこの呼び方は、そこに何らかの未知の広大な領域が現れたという特異な感覚を物語るように思います。日本は出ていったが、その後に何が来るかはまだ明確にわかっておらず、不安と混沌が広がっているという感覚です。そこにはさまざまな可能性が潜在していましたが、同時に多くの足かせも存在しました。今回は、この「解放空間」における文学について考えてみたいと思います。

 解放後の文学者たちの動きは早く、8月16日に、「朝鮮文学建設本部」が結成されました。ここには、かつて1930年代にプロレタリア文学運動を展開したメンバーから純粋文学を追求した人たちまで、幅広い顔ぶれがそろっています。その後文学団体は、作品活動というより理念的な闘争激化の様相を呈しながら離合集散を繰り返しました。それは文学論争でもありましたが、結果的には生死を賭けた選択にもつながりました。

 そもそもこの時期は、落ち着いて机に向かっていられるような時代ではありません。もちろん日本の戦後も政治的・経済的に相当な混乱期ではあったでしょうが、朝鮮の「解放空間」はもっと根底からの大揺れを伴っていたと思うのです。少なくとも日本に38度線は存在せず、分割占領はされませんでした。

 この連載で以前も書きましたが、38度線は朝鮮戦争のときにできたわけではなく、北緯38度線を境に米ソが朝鮮を分割占領することはすでにポツダム宣言の中に織り込み済みでした。1946年5月にはもう、このラインは封鎖され、民間人が通行することはできなくなります。

 そんな中、多くの文学者たちが自らの政治的立場を問われて煩悶しながら新時代に対応していくわけですが、このとき同時に問題になったのが、解放前、特に太平洋戦争の時期の日本への協力行為(親日行為)でした。

 そのことを具体的に描いた、解放空間特有の有名な作品を2作紹介したいと思います。いずれも「大家」と言ってよい、有名な作家の小説です。

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