まず、李泰俊の「解放前後」という短編です(田中明訳、『現代朝鮮文学選2』<創土社>所収)。
李泰俊は当時、「朝鮮文学家同盟」の副委員長でした。解放直後に結成された「朝鮮文学建設本部」がわずか半年ほどの間に二転三転してこの名称になっていたのです。「朝鮮文学家同盟」の基本綱領は、1. 封建残滓の清算、2. 日帝残滓の掃蕩、3. 国粋主義の排撃、でした。
短編「解放前後」は1946年7月に、同同盟の機関誌である『文学』の創刊号に発表され、第1回解放記念朝鮮文学賞を受賞しました。副委員長の作品ですから、お墨付きの受賞ということになるでしょう。
李泰俊のこのような働きは、周囲から驚きをもって受け止められていました。彼は1930年代から40年代にかけて名声を確立した作家で、すぐれた文章力と、短編小説の完成度の高さで知られていました。しかし政治性は希薄で、30年代に朝鮮で勢いのあったプロレタリア文学とは完全に一線を画する純粋文学の大家と見られていたからです。
「解放前後」は、そんな彼の1943年から46年にかけての心情がつぶさに描かれた、多分に自伝的な作品です。
主人公「玄」(ヒョン)は、太平洋戦争末期にソウル(当時の「京城」)を抜け出し、江原道(カンウォンド)の故郷に都落ちし、鬱屈を抱えて家族と暮らしています。
彼が「かつては柳宗悦のような人が朝鮮の暴力的支配を嘆いたし、ヒトラーの焚書に抗議した文化人が日本にもいたではないか。彼らは今どうして黙っているのか」と思い悩むシーンなどは、半世紀後に読んでもドキッとする生々しさで迫ってきます。
せっかく田舎に逃げてきたのに玄のもとにはやはり、時局に協力せよというお達しがしきりに入ります。彼は「いわゆる時局物や日本語創作へ転向するくらいなら、むしろ筆を折ってしまおう」という気持ちなのですが、一挙手一投足を近所の巡査が見守っている状態なので、要請をすべてはねつけるわけにもいきません。
何もしないでは生計も立たないので、嫌でたまらないけれども、(生きたい!)と心中で悲鳴を上げながら、ソウルの文化人講演会のようなところへ出かけるものの、どうしても演壇に立つ気になれずに会場を抜け出してしまったりします。一方では『大東亜戦記』といった本の翻訳だけは引き受けてお茶を濁していますが、自己嫌悪が抜けません。
そんな玄も解放を迎えると「大声をあげ跳びはねたい」という気持ちになります。すぐに汽車に乗り、「大統領は誰、陸軍大臣は誰と評定しながら」、停留場ごとにマンセーと叫びつつソウルへ向かいますが、17日にソウルへ着くとすぐに不快と不安を覚えます。
まだ日本軍と総督府が居座って朝鮮人に命令を下しているし、左翼作家たちが早々と勝手知ったように飛び回っていることも嫌なのです。しかし結局は、そうした人たちと共に行動し、自分の不安は杞憂だったと思うようになります。
面白いのは、玄と良い対照をなす故郷の村の老人です。この人は地元で尊敬を集める志士のような存在で、朝鮮時代のような古風な身なりに固執し、3.1独立運動に加わって投獄されたとき以外は、総督府のある京城になど一度も足を向けたことがないという誇り高い人です。彼が夢見るのは王政復古で、日本が出ていった今、「李氏王朝をもう一度お迎えしたいんじゃ」というのです。
玄はこの老人と語り合いながら釣りをして心の慰めを得てきたのですが、解放後はこの老人が、玄が共産党に丸め込まれたのではないかと疑って忠告をしにやってきます。
このとき二人は、1945年から46年にかけて朝鮮の人々を大きく翻弄した、信託統治をめぐって激しく対立しています。つまり、45年12月に、米英ソ中の4カ国による最長5年間の朝鮮の信託統治案が決まり、これに対して激烈な反対運動が起きていたのです。
玄に言わせれば、「三八度線は日に日に朝鮮の腰を絞めあげるばかりで、ふえるのは強盗、上がるのは物価というなかで、長らく昂奮していた民族の神経が衰弱しきっているところに、信託統治問題が爆発したのだ」ということになります。
老人はこれに大反対で、李承晩を中心として朝鮮人による独立を断固勝ち取るべきという立場です。一方、玄の依拠する共産党勢力も従来、信託統治に絶対反対でしたが、46年1月に突如路線を変更、信託統治賛成に回ります(ソ連の意向を受けてのことと言われています)。
ですから玄自身、相当に振り回されているのですが、「わが民族の解放はわれわれの力ではなく国際事情の影響でできることなのだから、朝鮮独立は国際性の支配を免れることはできない」と思い直すしかありません。けれども結局、彼は老人を説得できません。しかし、自分としては最も賢明な選択をして、目の前の文学活動に邁進していくのだというふうにストーリーは締めくくられています。
この作品を読むと、解放直後の作家たちが、刻々と変わる政治状況に何とかついていきながら、対日協力の有無と、自らの政治的な立場という、いわば二つの踏み絵の前に立たされていたことがわかります。
「解放前後」はさほど長くない小説ですが、李泰俊の文学的・政治的総括という面を持っており、「解放」という言葉の高揚とは遠い重苦しさに満ちています。しかし、激動期を生きる一人の人間の精神を余すところなく描いた重要な作品だと思います。
さて、1946年に「解放前後」を発表すると間もなく、李泰俊は突然ソウルを離れて北へ移ります。このころから、南で左派陣営の人々が活動することはどんどん難しくなっていき、多くの文学者が理想を求めて北に行ったのですが、李泰俊はそのトップバッターでした。
同年には訪ソ文化使節団の一員としてソ連に渡り、訪問記を書き、また朝鮮戦争の際は従軍作家として南に来ています。しかし1954年ごろから、朴憲永(パク・コニョン)ら南朝鮮労働党(南労党)系の人物が粛清されていく中で、李泰俊も厳しい批判を受けました。有名な詩人の林和(イム・ファ)や作家の金南天(キム・ナムチョン)らとは違って処刑は免れましたが、その後作品を発表した形跡はなく、また没年もはっきりわかっていません。
幼いころに孤児になった李泰俊は、人間の悲しみを細やかに描くこと、庶民の苦しみを愛情をもって描くことにたけた作家でした。彼が解放前に書いた作品は『思想の月夜ほか五篇』(熊木勉訳、平凡社)で読むことができます。
表題作の長編「思想の月夜」は、不遇な身の上の子供を主人公とする成長小説ですが、何ともいえない内省的な物悲しさが行きわたって胸に残る作品です。また、「福徳房」は、ある不動産屋に集まる老人たちが、家族関係や金銭欲に振り回されつつ人生を終えていく様子を淡々と描き、朝鮮の短編小説の傑作の一つに数えられています。
しかし、李泰俊は北に行ったため、韓国では1980年代の終わりまで彼の作品を出版することができませんでした。多くの読者に、また文学を志す人々にとって、何と大きな損失だったことでしょう。このことについてはまた後で触れます。
李泰俊は陶磁器の蒐集を趣味としていましたが、研究者の柳川陽介氏によれば、それは亡くなった父の形見の硯滴がきっかけだったそうです。孤独な彼にとって、陶磁器を愛することは大切な心の支えだったというのです。解放空間での李泰俊、北へ行ってからの李泰俊はどのような心の支えを持っていただろうかと思うと胸の痛むことです。