第二次世界大戦から朝鮮戦争までの「解放空間」を作家はどう描いたか?/斎藤真理子の韓国現代文学入門【5】

文=斎藤真理子
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 次に、これも有名な、蔡萬植(チェ・マンシク)の「民族の罪人」という短編を紹介します(『太平天下』<布袋敏博・熊木勉訳、平凡社>所収)。

 蔡萬植は1902年生まれ、質量ともに朝鮮の近代小説を代表する作家の一人といわれています。日本でも、代表作の長編『太平天下』と『濁流』(三枝壽勝訳・講談社)の二つを読むことができます。

 『太平天下』は植民地時代に財をなしたいわゆる「俗物」の生活と意見を諷刺を込めて描き、人間関係の妙味をたっぷり味わえる風俗小説で、今読んでも、小説を読む楽しみを堪能できる傑作です。ただし、地方語や土俗的な表現が多用されているので、初めて韓国文学を読む方にはとっつきにくいかもしれませんが。

 そしてこの作家が、親日行為を自ら反省した唯一の文学作品といわれる「民族の罪人」という短編を1948年に発表しているのです。

 発表は48年ですが、原稿には「46年5月19日」と脱稿した日付が記載されていたそうです。日本の敗戦から9か月後に完成したこの小説の冒頭はいきなり、「それまでは単純に自分はとにかく罪人なのだと思い、ただ一心に面目ない気持ちであったのだが」と始まります。

 以下、李泰俊の「解放前後」と同じく、作家自身と思われる主人公が一人称でどんどん心情吐露していきます。彼の「罪状」は、戦争への協力を説く講演をして回ったこと、造船所や炭鉱、工場を視察して増産奨励のための小説を書いたこと(発表には至らなかったとされています)、また、1944年に新聞連載小説を書いたことです。

 その連載小説は直接に戦争協力を強く啓蒙するものではありませんでしたが、1944年という時期には心ある朝鮮人文学者は筆を折っていたので、ほめられたことではありません。これらのことは蔡萬植の伝記的事実とも合致します。李泰俊よりは具体的に日本を利する行為といえるでしょう。

 主人公は、45年の4月にソウルから故郷へ疎開したのですが、これは日本が負けることを予想していたからでした。そうなったら社会の治安と秩序は完全に無化するだろうが、都会より故郷の方がしのぎやすいだろうと考えたのです。

 しかし大家族を抱えて田舎に帰ってみると凶作続きで、食料を得ることは並大抵ではなく、夫婦でカボチャやトウモロコシを作りながら、重労働でめまいのするような日々を送ります。それがまた美談のようになって新聞に載ったりするのでやりきれません。

 解放を迎えた今、主人公はそんな日々までも恥ずかしく思え、「支配者の圧力が弱まったそのときにすべてを捨てて立ち上がり、解放のための闘争を図る考えを積極的に持つのではなく、ただ自らの一身の安全を図るところまでしか思案が至らなかったことは、確かに私の弱く愚かな人間性によるところであることは間違いない」と自分を責めています。

 このようなやましさを抱えた彼がソウルの出版社主・金(キム)に会いに行くと、そこに、親日行為を一切せずに解放を迎えた作家の尹(ユン)がいます。主人公にとっては、絶対会いたくない人物です。

 案の定、尹が主人公に対してあからさまな皮肉を言うので、出版社主の金がいきり立って反論に回ります。つまり、尹は日本からの締め付けが厳しくなると同時に新聞記者の仕事をやめ、執筆活動もやめて沈黙に入ったのですが、それができたのは、彼の実家が金持ちだからだと喝破するのです。

 「君は、志操の硬度を試される積極的な機会を持ったことのない人間だ、合格か不合格か、まだそれがはっきりしていない未試験品だ」と金は詰め寄ります。

 もちろん対日協力は罪だが、それはその人間の情状や、犯した罪の及ぼす影響を広く考慮して処断を決めるべきだ、そうでないと、朝鮮の若い男性のほとんどに死ねというも同然になってしまうと金はさらにたしなめますが、それに対する尹の答えはこうでした。

「大概の奴はみな集めて粛清しないと。あまり寛大だと建国に大きな妨害になるよ。三八度線以北でやっているようにやらないと。それから、私は誰が何を言おうとあの卑しくて恥知らずで図々しい人間性が堪らなくいやなんだ。鳥肌が立つほどにいやで憎たらしいんだ。そういう奴らと朝鮮人という名をともにすることさえ屈辱であり不快なんだ」

 もちろん誇張が入っているでしょうが、読んでいるとちょっとむかっ腹が立ってきますね。でも主人公本人はそれを聞いても、やはり悪いのは自分だとしか思えません。いかに尹が「未試験」の人物でも、金持ちだから潔白を守れたのだとしても、それで自分の罪が薄まるわけではないと考えるのです。

 ぐったりして帰宅した主人公は、病人のようになって15日も寝込んでしまいました。そんな夫に、妻が「私たち、死んだつもりになりましょう」と声をかけるところがこの小説のクライマックスです。

「あなた、罪を犯したではないですか」
「父母の過ちが、あの幼い子供たちにまで及ぶようであれば、子供たちのためにあまりに悲しいことではないですか」
「原稿を書こうだなんて思わないでください。いっそ普通の会社のようなところにでも就職してください」

 この妻の言葉は、中野重治の「村の家」に出てくる中野の実父を思い出させます。かつて共産党員として活動して検挙・投獄され、転向して出獄した中野重治に対し、父は、「おとっつぁんは、そういう文筆なんぞは捨てべきじゃと思うんじゃ」と言います。つまり、仲間を裏切って出てきたお前は、もう作家などという仕事はやめて農業をやれ、それが人の道だという忠告です。地に足のついた人から忠告されて、作家がぐうの音も出なくなってしまうところに、「民族の罪人」はとてもよく似ています。

 しかしその先が違うのです。「村の家」では、主人公が「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」と述べ、父親は不満を表しながらもそれ以上は何も言わず、緊張感の中で物語が終わりましたが、「民族の罪人」は、ちょっと予想のつかない方向へ展開します。

 主人公は、妻にそう言われてもまだ「あまりに自分の人生が情けなくてたえられないのだ」などといじいじしているのですが、そこへ突然、中学校(今の高校)へ通う甥がやってきます。

 それは、甥の学校が急遽生徒たちの意思によって同盟休校に入ったためでした。その理由は、親日派教師が赴任してきたことへの反発です。その教師は以前、創氏改名をしない生徒を落第にしたり、朝鮮語を使う生徒を殴ったりしていたそうで、甥自身もそれには反感を持っています。しかし、上級学校の入学試験を控えている彼は、同盟休校に参加したら内申評価に響くし、静かに受験勉強もしたいと思っておじさんの家にやってきたのでした。

 何だか唐突な展開なのですが、ここで、意気消沈していた主人公が一転して元気になるのが実に意表を突きます。彼は甥をたしなめ、仲間たちと一緒に同盟休校に参加すべきだと主張します。「正しいことのために前に出て戦うのではなく、楽で無事にあろうとして正しくない道に進むような奴は、勉強どころかどれほど立派な能力があったところで何の役にも立たないんだ」と。

 上級学校への進学は一年遅れてもかまわない、退学になってもいいから同盟休校に参加しろというおじの主張に甥も納得し、そして主人公はさっぱりした気持ちになり、安心したという結末になっています。

 ちょっと見ると、あんなに悩んでいた自分の責任問題は放ったらかして甥の問題に介入し、そこから「さっぱりした気持ち」を得たというのは奇妙に感じられなくもありません。しかしこの点に関してはどうも、日本と韓国の読者の意見が違うようです。

 蔡萬植の『濁流』の翻訳を手がけた三枝壽勝氏は、自分自身、「民族の罪人」の結末に違和感を感じていたが、最近ではこの作品に対する見方が変わってきた、それは「蛇足で作品を台無しにすると思われたこの部分があるからこそこの作品を読んでほっとするという韓国の読者がいたからである」と述べています。

 この指摘はたいへん興味深いと思います。もしかしたら韓国の読者は、作家という立場は人に教えを垂れる義務があるので、その人間が情けないままでは座りが悪く、啓蒙者としての威信を取り戻すところに安定感を覚えるのかもしれません。または、解放直後という時期に鑑みて、少しでも楽観的な、希望を感じる結末に安堵するのかもしれません。

 さらに、韓国におけるおじと甥という関係が日本で考えるよりずっと近く、ほとんど実の親子と変わらないことも考慮すべきかもしれません。そう考えるとこの結末は、自分は過ちを犯したが、次世代を諌めることで親としての責任を果たしたという達成感にも思えます。いずれにせよ、私を含む日本人読者が考えがちな「自分の罪を棚に上げて他人を叱っている」という無責任さとは違うのではないか。

 とはいえ、これは三枝先生がおっしゃっていることなのですが、この場合、わからないものはわからないままにしておくという態度が最上なのかもしれないとも思います。外国文学を読むことは、他者が存在するという事実を受け入れるということです。何もかも自分の文脈で納得しようとしていじり回さないことも大切ではないでしょうか。それほど、解放空間の空気というものは、私たちの安易な想像を受けつけないほどのものだと思いますから。

 さて、韓国の『韓国民族文化大事典』という本を見ると、この小説を「親日派としての過ちを良心的に問題としている点で高く評価される作品」と説明されています。また、蔡萬植自身もこの作品を書き上げたことで自分の行為に踏ん切りをつけ、解放後の本格的な執筆活動に入ることができたというのが、大方の見方であるようです。

 また、「民族の罪人」は執筆から発表までに2年のタイムラグがあり、1948年に発表されていますが、それは、対日協力者の責任問題と関係しているといわれています。親日派と目される人々への処罰をどうするかという点はずっと大きな問題でしたが、1947年の年頭ごろから、公に論議されるようになったのです。1948年に「反民族行為特別調査委員会」が制定、翌年に組織され、法律もでき、朝鮮近代小説の祖である李光洙(イ・グァンス)が逮捕されていきます。そんな中で、いわば自己弁護として発表されたという側面も持つ作品です。

 ただ、そのような処世としての側面があったにせよ、「解放前後」にも「民族の罪人」にも、私は読んでいてある種の率直さを感じました。特にそれが作家のモノローグだけでなく、周囲の人々との対話として記されていることが非常に興味深く、日本の小説の中に、作家が自らの戦争責任を自問して対話を交わすようなシーンがあっただろうかと思い返したのですが、なかなか思いつきません。

 例えば「民族の罪人」には、主人公が「死んだほうがよほどましだな」と漏らすと、出版社主が「潔白だったときに憤死できなかったからには、汚れた体で身を恥じて死を選ぶなど、みっともないぞ」と声をかける場面がありますが、ここなどは何かとても生々しいものを感じます。日本人読者としてはたいへん重いシーンです。

 解放と独立の間に距離があり、皆が不安の中をさまよっていた「解放空間」に、このような人間と人間の対話がこだましていることは、見逃してはならないように感じます。

 蔡萬植は解放直後の一時期ソウルで暮らしていましたが、1946年に故郷に戻り、1950年、朝鮮戦争が始まる直前に自宅で病没しました。

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