第二次世界大戦から朝鮮戦争までの「解放空間」を作家はどう描いたか?/斎藤真理子の韓国現代文学入門【5】

文=斎藤真理子
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 二人の代表的な作家が、解放空間で、自分の問題を具体的に綴った二つの小説を見てきました。この二人はある意味ではっきりとした対立をなしています。つまり、李泰俊は自ら北へ行き、蔡萬植は南にとどまったという点です。このことは韓国文学史上、非常に重要な側面です。

 解放以後、朝鮮戦争の時期にかけて、文学者をはじめ芸術家の多くが北へ移動しました。ある統計では、解放から1948年1月までに、北から南に約80万人の人が移動したと言われますが、芸術家や知識人の多くは逆に北を目指したのです。

 世界的に、社会主義、共産主義の世の中への期待が高まっていた時期です。日本も例外ではありませんでした。

 李泰俊の他にも、彼の仲間のモダニズム作家で、映画監督ポン・ジュノの祖父でもある朴泰遠(パク・テウォン)など、そして植民地時代にプロレタリア文学の陣営で活躍した詩人の林和(イム・ファ)、金南天(キム・ナムチョン)、韓雪野(ハン・ソリャ)などがすぐに思い浮かびます。

 その後林和、金南天は粛清にあって処刑されました。松本清張の小説『北の詩人』は、林和の苦悩を描いたものです。李泰峻と韓雪野も追求を受けて作家活動を中断しています。

 さらに、朝鮮戦争の際に北に連行された文学者も少なくありません。ここには先にも名前の出た李光洙、詩人の鄭芝溶(チョン・ジヨン)や金起林(キム・ギリム)などが含まれます。

 このように北へ行った文学者は、韓国で「越北作家」と呼ばれ、その作品の多くは長く発禁扱いでした。李光洙などの例外はあるものの、1987年に韓国が民主化を迎える後まで、この人たちの作品は出版されず、研究対象とすることさえ許されませんでした。文学史の本の中でも、名前が「李○俊」などと伏せ字にされていたそうです。

 ここに私が名前を出した人々だけでも、日本でいうなら、例えば志賀直哉と太宰治と小林多喜二と中野重治と北原白秋と萩原朔太郎などの業績が文学史からまるごと消えるような事態に匹敵します(これは、文学史上の重要性などを勘案してとりあえず割り振ってみたもので、作風とはあまり関連がありません)。そして、人数はこれだけにとどまりません。

 1988年、韓国では、越北作家が解放前に発表した文学作品について、全面解禁措置をとりました。対象となる作家数は「百二十余名」とされています。

 李泰俊と蔡萬植は二人とも早稲田大学に学び、30年代に「朝鮮文学の黄金期」と言って良い時代を築いた人でした。そして、同じように自らの日本協力行為を振り返る作品を書きながら、李の名前はずっと文学史上から消え、蔡の作品は名作として読まれつづけてきました。

 この空白は韓国が民主化を迎えた1980年代後半から埋められ、今は研究が積み重ねられています。また、北朝鮮の文学史からも、粛清された人々の名前は長らく消されていましたが、その後、名誉回復を経て復活した例もあり、少しずつ彼らの足跡が浮かび上がりつつあります。解放空間の文学は、消えた越北作家たちの人生と密接につながり、また一方では、彼らに親日行為という踏み絵を強いた日本の歴史とつながっています。

 ここで一つ付け加えておきますと、「解放前後」が載っている『現代朝鮮文学選2』(創土社・1974年8月15日発行)は、日本人による初めての本格的な朝鮮語からの文芸翻訳書です。1970年に結成された「朝鮮文学の会」というグループが編訳を務めた短編集で、田中明、大村益夫、梶井陟、新島淳良といった人たちが名前を連ねています。

 『現代朝鮮文学選1』は、主に1960年代の南北双方の作品を集めたものでした。そして、「解放前後」が載った巻2は、14編のうち12編までが解放直後に書かれた作品でした。朴泰遠、金東里、そして蔡萬植の「ミスター方」といった作品も採られています。

 これらを集めた理由は、「この時期の作品は南北朝鮮の文学史からすっぽりと切り落され、いまや作品を手にすることさえ困難になっている」からだと、本書に解説を寄せた研究者の尹学準(ユン・ハクチュン)が述べています。

 尹学準は1933年生まれ、朝鮮戦争後に密航して日本へやってきて、文学研究・翻訳に従事し、最後は法政大学の教授になった人で、「朝鮮文学の会」にはオブザーバーのような立場で多大な協力をしていました。ごく若いころに自分自身が「解放空間」を身をもって知っていた人です。

 そして、冒頭に引用した高峻石は1910年生まれ、朝鮮共産党と南朝鮮労働党員として働き、「反革命分子」のレッテルを貼られて追われ、李承晩政権の特務機関によるリンチで妻子を殺された人で、まさに解放空間の中で人生が決まった人です。

 高はやはり朝鮮戦争休戦後に日本へ密航し、朝鮮半島の現代史に関する多くの本を書きました。本稿への引用は、まさにそのものずばりのタイトル『朝鮮1945−1950――革命史への証言』(社会評論社、1985年)という高峻石の著書から引用しました。

 この人たちを筆頭に、日本にも「解放空間」を知る多くの人々が生きていたことを、一言つけ加えておきたいと思います。

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 最後に、このような情勢の中でひっそりと世に出た一冊の詩集の話をして終わります。それは尹東柱(ユン・ドンジュ)の『空と風と星と詩』(金時鐘編訳・岩波文庫)です。1948年1月のことでした。

 尹東柱は今では日本でもかなり名前が知られるようになりました。太平洋戦争末期の45年2月、留学先の日本でわずか27歳にして獄死した詩人です。

 48年に家族や友人の努力で遺稿が出版されたとき、尹が生前に尊敬していた先輩詩人・鄭芝溶が序詩を寄せました。二人とも京都の同志社大学で学んだ経歴があり、クリスチャンでした。現在、同志社大学には二人の詩碑が並んでいます。この鄭芝溶が朝鮮戦争当時に北に連行されて亡くなったことは、先に述べた通りです。

 序詩

 死ぬ日まで空を仰ぎ
 一点の恥じ入ることもないことを、
 葉あいにおきる風にさえ
 私は思い煩った。
 星を歌う心で
 すべての絶え入るものをいとおしまねば
 そして私に与えられた道を
 歩いていかねば。

 今夜も星が 風にかすれて泣いている。(金時鐘訳)

 この作品を冒頭においた尹東柱の詩集は、刊行とともに若者たちに広く読まれました。かつて日本の詩人、茨木のり子が「二十代でなければ絶対に書けないその清冽な詩風」と評した詩です。「長生きするほど恥多き人生となり、こんなふうにはとても書けなくなってくる」とも。

 彼の詩集が世に初めて出たのが1948年だったことを考えると、いっそうその意味が際立ってくるようです。解放から3年、もはや、朝鮮の地に統一政府を樹立することは非現実的となっていました。

 尹東柱の詩集が出たのは、李承晩が南だけの単独選挙実施を主張し、それに反対する済州島の人々の大規模な抗議行動が弾圧されてすさまじい流血を呼ぶ年でした(済州島4.3蜂起)。

 その前年に呂運亨はすでに暗殺されており、金九は翌年に暗殺されます。権謀術数が入り乱れ、裏切りが続き、大人たちがどちらを向いても潔白ではいられなかったとき、夭折した尹東柱は、永遠に手を汚すことのない潔白さの象徴として韓国に現れ、その後もずっと青春詩人としての位置を守りつづけています。

 1945年から48年(50年)までの文学を網羅することはできないのですが、ここに紹介したものの中から、時代の横顔を多少なりとも読み取っていただければと思います。解放と独立の間に埋められない距離があり、その間を必死でかき分けて進むしかなかった人々の横顔です。

(斎藤真理子)

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