誰かのご機嫌とりをしない「女」の自尊感情〜「女らしさにおける最下層民」とはどういうことか

文=原宿なつき
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GettyImagesより

 昨年、ある映画を観た。新感覚シスターフッド・ムービーという謳い文句で宣伝されていたものだ。

 30分程早めに映画館につくと、会場前には10名ほどの中年男性がいた。こういう映画に中年男性がくるのって珍しいな、と思ったが、会話の内容から映画の関係者であることがわかった。一人の男性は「今日って、半分くらい関係者じゃない?」と言っていた。その日は上映後、舞台挨拶があったため、関係者が多数観に来ていたようだ。

 映画が終わり、エンドロールが流れた。脚本、演出、監督、編集、すべて男性だった。前から二列目に並んで座っていた関係者団体が率先して拍手をしていた。

 映画に出てくるメインの女性キャラ三人は、妹、婚約者、浮気相手で、ひとりの男性を熱烈に愛している。婚約者と浮気相手は、映画のなかで実際に「愛している」に類する言葉を発するし、妹は結婚直前に浮気相手と逢瀬を重ねている兄を、「嫌いにさせないでよ!」となじったり、兄の浮気現場を一眼レフで撮影しようと試みたりするブラコンだ。

 シスターフッドの映画というより、ひとりの男性を熱烈に愛している女性たちの話のようだった。

 兄に執着するかわいい妹。献身的で家庭的な婚約者。セクシーな派遣事務OLの浮気相手。三者三様の女性が出てくる。兄の結婚式を阻止しようと計画していた妹と浮気相手は、結局、結婚式を壊さず、浮気していた兄はこれといった制裁は受けなかった。新郎の浮気を受け流す婚約者は、「器の大きい、強くていい女」として描かれていた。この女性たちを「リアル」「ステレオタイプではない」と評するレビューもあるようなのだが、私には「男がイメージする女のいくつかの典型例」に見えた。そういう女性は確かに現実に存在する。けれど、そうでない女性たちも数え切れないほどいる。

 ステレオタイプだからこそ、安心して観ることができる作品に仕上がっているのかもしれない。しかし個人的には、ステレオタイプな女らしさ満々のキャラが、終始そのステレオタイプを逸脱することなく行動し、男性を求め、見守り、許すことで得た繋がりを「シスターフッド」とラベリングされることに違和感があった。ハーレムものですよ、と言われたら納得できたのだが。

「私はブスの側から書いている。ブスのために、ババアのために、男みたいな女のために」

 フランスを代表する作家であるヴィルジニー・デパントによるエッセイ集『キングコング・セオリー』(柏書房 相川千尋訳)は、「描かれにくい側の女性」の立場から書いたエッセイだ。フランスで20万部を突破したのち、日本を含む世界16言語で翻訳されている本書は、次のような一文から始まる。

<私はブスの側から書いている。ブスのために、ババアのために、男みたいな女のために、不感症の女、欲求不満の女、セックスの対象にならない女、ヒステリーの女、バカな女、「いい女」市場から排除されたすべての女たちのために。最初にはっきりさせておく。私はなにひとつ謝る気はない。泣き言をいう気もない。自分の居場所を誰かと交換するつもりもない。ヴィルジニー・デパントであることは、他のなによりおもしろいことだと思うから>(P.10)

 「女らしさにおける最下層民(プロレタリア)」を自称するデパントは、ポルノ、性犯罪、売春、女らしさと男らしさについて、自分の経験を通して書く。

 「女らしさにおける最下層民」。なんて自虐的な、と思う人もいるかもしれない。そう思ってしまうのは、“女らしくある方が女にとって良い”という大前提を疑う余地なく信じているからだ。実際、社会の多くの人々は、女性が女らしくなることを褒め称えるが、その逆は、いぶかしむ。

女らしさとはすなわち、ご機嫌とりだ

 女らしさとはなんだろうか。デパントは、以下のように定義している。

<女らしさとはすなわち、ご機嫌とりだ。服従の技法。それを誘惑と呼んで、性的魅力のように見せかけることもある。ほとんどの場合、そんなに難しいことではない。下手に出る習慣を身につければいいだけだ。(略)大声で話さない。きっぱりした口調で意見しない。足を広げずに、きちんと座る。威圧的な話し方をしない。金の話はしない。権威ある地位につこうとしない。名声を求めない。大声で笑わない。あまりおもしろいことを言わない>(P.173)

 東大の女子学生は「東大生です」と自己紹介するとモテない(から他大生のふりをする)とか、女性芸人が男性芸人と比較にならないくらい異性からの人気を獲得しにくいとかを考えると、彼女たちの学歴やおもしろさが、一部の男性の機嫌を損ねているのは明らかだ。

 「女らしさにおける最下層民」とは、誰の機嫌もとらない、とる必要もない人間だということだろう。つまり自虐ではなく、自尊感情からの「女らしさにおける最下層民」なのだ。(ただし、デパントは女らしい女を否定してはいない。ようは多様性の問題だ)

 女らしさを善として描く様々な作品たちに比べ、女らしさの拒否を善とする作品はあきらかに不足している。だからこそ、『キングコング・セオリー』は広く求められ、多くの読者を獲得したのだろう。

 ステレオタイプの女性表象(そしてそれを、良きものとして描くこと)にはもうお腹いっぱいだ。

(原宿なつき)

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