自民党保守派にとって「選択的夫婦別姓」は姓氏だけの問題ではない 議論を後退させた背景にある“国家観”
社会 2021.01.30 08:00
山谷の談話で重要なのは②で、ここに彼らにとっての「家族」の意義が示されている。
人間は社会的動物なので一人で育つことはできないというのはあたりまえだが、だからといって人が育つ場所は「家族」という小さな共同体だけとは限らない。しかも現在の日本ではさまざまな形態の「家族」が存在しているにもかかわらず、山中においては「ファミリーネーム」=氏を共有する集団するのみが「家族」とされているかのようだ。
その「家族」の機能として求められている「さまざまな文化の伝承」とは、どういうことなのだろうか?
山谷も所属する日本会議のイデオローグ・八木秀次(麗澤大学経済学部教授)は次のように述べている
家族こそは世代を超えて文化を伝承していく場所であり、次世代の国民を育てる場所である。家族の機能がおかしくなると、犯罪が増え、社会秩序も乱れる
(八木秀次『国民の思想』産経新聞ニュースサービス、2005年、175頁)
山谷えり子の「さまざまな文化の伝承」が、八木の言う「家族こそは世代を超えて文化を伝承していく場所であり、次世代の国民を育てる場所」の変奏であることがよくわかる。「日本人」を再生産する場として「家族」が位置づけられているのである。
「遠い祖先に始まり、永遠に子孫によつて連続」する「家族」観
これは彼らのオリジナルな思想ではない。
最後の「修身」国定教科書『ヨイコドモ』上(国民学校一年生用、1941年)に掲載された「十六 ワタシノウチ」を見てみよう。
第五期国定教科書『ヨイコドモ上』
この課の指導方針を示した『教師用 ヨイコドモ上』(文部省、1941年)では次のように書かれていた。
我が国民生活の基本は、個人でもなければ夫婦でもない。家である。家の生活は夫婦、きやうだいのやうな平面的関係だけでなく、その根幹となるものは、親子の立体的関係である。この親子の関係を本として、近親相倚り相扶けて一団となり、我が国体に則つて家長のもとに渾然融合したものが、即ち我が国の家である。
しかも我が国の家の生活は、現在の親子一家の生活に尽きるのではない。遠い祖先に始まり、永遠に子孫によつて連続せしめられる。現在の家の生活は、その過去と未来とをつなぐものである
「我が国民生活の基本は、個人でもなければ夫婦でもない。家である」――という、大日本帝国時代の「家」制度を基礎に展開された文章ながら、これをそのまんま「社会の基礎単位は家族」と「家」を「家族」に置き換えたのが、日本会議を筆頭とする右派の人びとなのだった。
とりわけ「しかも我が国の家の生活は、現在の親子一家の生活に尽きるのではない。遠い祖先に始まり、永遠に子孫によつて連続せしめられる。現在の家の生活は、その過去と未来とをつなぐものである」という一節は重要だ。
(当時においてもすでに大きな割合をしめていた)核家族的形態における家族関係=「夫婦、きやうだいのやうな平面的関係」に対して、「遠い祖先に始まり、永遠に子孫によつて連続せしめられる」と過去から未来への伝承・継承という時間的/歴史的な縦軸をぶちこんできているわけだ。
この「家」を媒介とした継承関係こそが大日本帝国の統治原理をなす「家族国家」イデオロギーの基礎にあったのだ。