
(栗原さん提供写真)
(※本稿の初出は『yomyom vol.66』(新潮社)です)
やっちゃんはブタみたいなネコを飼っています
「やっちゃんはブタみたいなネコを飼っています」。これは先日、トークイベントで友人の小説家、Y子さんにいわれたことだ。ちなみに、「やっちゃん」とはわたしのこと。くりはらやすし、やっちゃんだ。Y子さんはちょっとまえにうちに遊びにきてくれたのだが、そのときアパートの入り口で、とてつもなくブサイクなネコに会ったのだという。顔面は傷だらけで、毛はうすぎたなく、それでいてパンパンに肥え太っている。さながら子ブタ。そのネコがグルグル、ブヒブヒいいながらすりついてくる。人なつっこい。思わず「やっちゃんちのネコですか?」ときくと、ニャアといって返事を返してきたという。まちがいない、鬼太郎だ。
むろん、うちのネコというにはすこし語弊がある。もともと野良ネコ、いまは地域ネコだ。名前も野良なので、わたしは「鬼太郎」とよんでいるが、ご近所さんたちは別のよびかたをしている。たとえば、さいきん保健所につれていかれないように、だれかが首輪をしてくれたのだが、その首輪にはマジックで「ブサコ」とかいてあった。子どもの字だ。その後、さすがにわるいと思ったのか、二重線で消されている。さすが野良ネコ、名前は無数。おそろしいもので、人間というのはペットに名前をつけることで、あたかも自分の所有物であるかのように思ってしまう。わたしが主人で、あなたは奴隷。めっちゃ支配だ。だけど野良にそんな理屈は通用しない。老子いわく、「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず」【1】。たえず名状しがたいなにかに化けろ。だれのものにもなりはしない。野良ネコはアナキスト。おい、鬼太郎!
せっかくなので、鬼太郎とのなれそめをお話ししよう。はじめて出会ったのは今年の四月。緊急事態宣言まっただなかだ。じつはもともとエサをあげていたのは別のネコだ。「ネコさん」。わたしはいま埼玉県の与野に住んでいるのだが、いっしょに暮らしているかの女と散歩をしていたところ、めちゃくちゃかわいい二毛ネコと仲良くなった。こっちをみつけると、五〇メートル先からでもテコテコと駆けてくる。ネ、ネコさん! しばらくして、ご近所さんみんなでかわいがっている地域ネコだとわかった。超人気のアイドルネコだ。つけられた首輪にはこう書いてある。「みんなのネコさん」。それをみてかの女がこういった。「裸一貫、家も財産ももたずに食べている。すごいことですね」。会社も仕事もなんにもない。わたしも思った。はたらかないで、たらふく食べたい。
それからまもなく四月のことだ。ある夜、かの女とコンビニで買い物をして帰ってくると、すこしはなれた駐車場にネコがみえた。手をふってもやってこない。あれ? なんだか様子がおかしい。不審に思ったわたしは「もういこう」といったが、かの女が「お腹が空いていたらかわいそうだから」といって駐車場へむかった。かの女がいくとネコが逃げる。でもカサコソとエサをだすと、パッとよってきて貪り食った。その瞬間、かの女が猛ダッシュでこっちに逃げてくる。どうした? そう、ネコ違いだったのだ。わたしがみにいくと、ものすごい姿。ガリッガリにやせ衰えていて、足は骨と皮だけ。毛も抜けおちていてあばら骨がうきでている。さながら巨大なドブネズミ。顔面はただれていて、ほとんど片目が潰れていた。完全なる野良だ。近づいたわたしにキッとガンをとばす。こわい。あまりの不気味さに思わずたじろいでしまった。完敗だ。
その後、ネコさんにエサをあげていると、必ずそいつもやってくるようになった。これがもう忍び足でまったく気配をかんじさせない。まさに神出鬼没だ。とつぜん後ろにいてジッとこっちをにらんでいる。なんど、かの女が「ギャア!!!」と叫ぶのをきいたことだろう。いつもかの女とネコさんが逃げてしまうので、しかたなくわたしがそいつにエサをやる。いつしか「鬼太郎」とよんで仲良くなっていた。するとみるみるうちに肥え太りはじめて、いまではもう肉がパンパン。爆発しそうだ。丸々していてかわいらしい。首の太さがイケている。毛もちゃんと生えたよ。たまにティッシュで目をふいてあげていたら、目もよくなった。どうも近所の人たちもエサをくれるようになって、だれか病院にもつれていってくれたみたいだ。いまではネコさんと鬼太郎は親戚だというウワサまで流れている。ブブブの鬼太郎だ。好兄弟!
みんな野蛮人だよ
変わったのは鬼太郎ばかりではない。それから毎日、わたしとかの女は夜、ネコ散歩をするようになったのだが、くりかえしていると、さいしょはわからなかった鬼太郎の気配がわかるようになった。足音をたてていなくても、いるかどうかがわかるのだ。暗闇を歩いていると、空き地から光がみえる。ネコの目だ。いままでみえなかった眼光がスッとはいってくる。ご近所さんの屋根のうえ、塀のうえや車庫のなか。草むらの茂みからきこえてくるかすかな音。風の匂い。そういうのが意識していなくてもおのずとみえてしまうのだ。風が語りかけます。オラ、鬼太郎。
それまでわたしは道といえば道路。コンビニやスーパー、駅にいくためのものでしかなかった。ただの平面。というよりも直線だ。出発点からゴールまで。必要なことがあって、その目的をいかに速く効率的に達成するかくらいのものでしかなかった。しかしその用途からとつぜん道がズレはじめる。道が立体的にみえてくる。みえるはずのなかった道がみえてくる。同じ場所にいるはずなのに、別次元の場所がみえてくる。
なにがおこったのか。ふと山形に住んでいる山伏の友人のことを思いだした。わたしは半年にいちどその友人をたずねて遊びにいくのだが、とうぜん山のひとなので、なんどか山も案内してもらった。そのとき思ったのは、わたしたちとみえているものがちがうということだ。たとえば、いっしょに山のテッペンにあるお堂をめざしていたときのことだ。わたしなどはその進路だけに集中してしまう。山でありながら目的地までの直線、平面しかみえていないのだ。だが山伏の友だちはちがう。なぜか斜面がみえている。「ああ、あそこにいい山菜がいっぱいあるよ」「このキノコがたまんないんだよね」。その付近の木の傷跡からクマの気配をかんじ、危険をしらせてくれる。
それをみて、山の身体とはこういうものかとおどろかされた。そして、これはもじどおり移住して自然のなかで暮らして、修業を積まなければ身につかないものだとも思っていた。しかし鬼太郎におしえられたのは、じつはそうではないということだ。もちろん程度の差はある。だけどたとえ都会で暮らしていても、ただ散歩をしているだけでも、山伏的な目というのは意外とどこでも生れてくるものだということだ。みえないものがみえてくる。みえない音がきこえてくる。みんな野蛮人だよ。
もうすこし掘り下げてみよう。こうしたことを考えるのに、いつも参考になると思っているのが人類学者のティム・インゴルド『ラインズ』だ【2】。かれは人間の移動には二つのタイプがあるといっている。
1) 輸送
2) 徒歩旅行
わかりやすい。まず「輸送」の特徴はその目的志向性にある。経済をまわすという目的だ。運搬するヒトやモノがダメにならないように、できるかぎり速やかに目的地まで移動する。だいじなのはスピードと効率性。風景も気候も音も匂いも関係ない。陸でも海でも空でも、はじめから抽象的な地図が設計されていて、その最適ルートをわたっていく。これが文明の、資本主義の要だといってもいいだろうか。だからこそ、権力者は「輸送」を阻むものたちに一切容赦しない。ひょっこり男よろしく道路の秩序をおびやかすものがいれば即逮捕だし、空港建設に反対する者がいれば徹底的にたたき潰されるのだ。
もうひとつの「徒歩旅行」とは「生活の道に沿って成長する」ことだ【3】。インゴルドによれば、それをもっともよく体現しているのが狩猟採集民だという。かれらが森に入るとき、はじめから地図なんて存在しない。どの方角にいくのかはわからない。予測不可能だ。どこに果実があるのか木の実があるのか幼虫がいるのか、森に入るまでわからない。でもなにもないわけではない。道標(みちしるべ)はある。そのつど注意深く森を歩きながら、どこにいいものがあって、どこになかったのかその足跡をのこすのだ。次にきたときはその痕跡をたどって、またあたらしい足跡をのこしていく。
一人ではない。いろんな人たちが先人たちの痕跡をたどり、その足跡をのこしていく。その足跡がつながって一本一本、みんなで小道をこしらえていく。しらずしらずのうちに小道と小道がつながって、自分たちの活動が刻み込まれたルートが築かれている。外部の者がみてもわからない。しかし確実に存在している。まるで糸と糸をつなぎあわせ、紐と紐とをむすびつけ、線と線とを縫いあわせて編み目や模様をこしらえていくかのように、みずからの生きる力を成長させ、そのテリトリーを拡充していく。予期せぬ共同の生が結ばれていく。生きるということは旅をするのと同じことだ、道をこしらえるのと同じことだ、線をひくのとおなじことだ。生の拡充はとまらない。ザ・ラインズ!
しかもおもしろいのは、インゴルドが、そういう旅こそがそこに住まうことなのだといっていることだ。
居住という言葉で私は、そこに住むためにやって来る人間集団があらかじめ用意された場所を占める行為を示すつもりはない。居住者とはむしろ、世界の連続的生成プロセスそのものにもぐりこみ、生の踏み跡をしるすことによって世界を織り出し組織することに貢献するものである【4】。
ちゃんといっておくと、いま流行の多拠点居住のことではない。旅をするようにいろんなところに住まいをもうけたところで、そこでやっていることが、ただ経済活動のためにスピーディにムダなくはたらきましょうというのでは、けっきょく会社のなかで、オンライン上の仕事のなかで「輸送」をしているのと同じことだ。むしろ同じ場所にいながら別次元の道をすすむこと、生の踏み跡をしるすこと、その痕跡の糸を織りなすこと、それが住まうということだ。輸送じゃねえよ、旅行だよ。糸と糸をつなげ。紐と紐をむすべ。紐帯(ちゅうたい)だ。外部からはみえなくてもいい。ムダといわれてもかまわない。「輸送」の権力に縛られるな。目的と必要の世界に屈服させられたくはない。「居住」とはなにか。不可視のテリトリーを築き、支配なき共同の生を紡げ。
道路を踏みはずせ
さて、話をもどそう。わたしは鬼太郎に出会うまで、この与野で「輸送」の世界に支配されていた。あるのは道路。コンビニにいくため、スーパーにいくため、駅にいくため。どれも経済のため、消費のため、労働のためだ。深夜、アパートの駐車場でタバコを吸っていたら、それだけで不審者あつかい。アパートの掲示板に「通報します」との張り紙をはられ、なにかわるいことをしたかのように思わされる。それもこれも「輸送」のせいだ。わたしがたっているこの場所はすべて物流のために、ヒトやモノを迅速に運ぶために設計されたものだ。なのに、そこでムダにダラダラとタバコを吸っているのがおかしいのだ。駐車場の秩序をみだす「犯罪者」。とりしまりだ。
そういえば、矢部史郎『夢みる名古屋』に同じようなことが書いてあった【5】。車社会の名古屋では、埼玉などよりも「輸送」のとりしまりがさらに露骨。スーパーのだだっぴろい駐車場に、ひとがたむろすることがゆるされない。それで生れたのが「口裂け女」、都市伝説だ。「スーパーの駐車場に口裂け女出現!」。ウワサがウワサをよんでいく、バシバシバシバシと伝播(でんぱ)していく。目的もないのに駐車場で遊んでいるやつは不審者だ、犯罪者だ、バケモノだ。口裂け女をとりしまれ。道路が政治をはっている。わたしたちの日常が「輸送」の世界に囲いこまれていく。
どうしたらいいか。鬼太郎だ。さいしょに触れた小説家のY子さんは、「やっちゃんが鬼太郎を救ったんじゃない。鬼太郎がやっちゃんを生かしているんだ」といっていた。そうなのだと思う。もちろん海外だと、政府のおかしな政策を止めるために、高速道路をガツンと止めたり、何年もかけて空港建設に反対して勝利をおさめたりと、例に事欠かない。だけど、そうやって真正面から「輸送」とたたかうのと同時に、それぞれの日常のなかでどれだけシレっと別の生を紡いでいけるのか、いまこの場に居住できるのか、住まうことができるのかということがだいじなのだと思う。
わたしの先人は鬼太郎だ。いちど人間の力がくわわって人工的なネコになる。だがペットではない。その人工性そのものが野良なのだ。自然なのだ。アナーキーなのだ。人間には制御できない「人工物」。それが鬼太郎だ。さいきんあまりによく食べて、いつも腹が減ったようと催促してくるので、わたしも近所の人たちもアパートの下に皿をおいて、余計にエサをおいておくようになった。鬼太郎は元気ハツラツ。肉パンパン。さいきん予期せぬ場所でも出くわすようになった。あきらかにテリトリーをひろげている。仲間も増えたみたいだ。深夜、ベランダでタバコを吸っていると、どこからともなくネコの鳴き声がきこえてくる。シャー、シャー。一人ではない、複数だ。夜の集会。鬼太郎の餌場からみしらぬネコがたちさっていく。さいたまの与野を狩猟採集。そこかしこにネコたちの足跡が刻印されている。ラインズじゃあ。やるな、鬼太郎。
わたしも鬼太郎の足跡をおって、一歩ずつ自分の足跡をのこしていく。みえない道をこしらえて、人間ネコに化けていく。この大地におのれの生の痕跡を刻みこめ。「輸送」の世界を離脱しよう。我慢がならねえ、俺たちの道を、決してちぎれぬ強い「紐帯(きずな)」をむすべ。痕跡のアナキズム。あちこちを旅するのではない。いまこの場を旅して住まうのだ。いまここが新天地じゃないのなら、どこにも新天地なんてないんだよ。鬼太郎が鳴いている。シャー、シャー。道路を踏みはずせ。
【1】『老子』(蜂屋邦夫訳注、岩波文庫)一二頁。
【2】ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(工藤晋訳、左右社)。
【3】同書、一二七頁。
【4】同書、一三三頁。
【5】矢部史郎『夢みる名古屋 ユートピア空間の形成史』(現代書館)。
(※本稿の初出は『yomyom vol.66』(新潮社)です)