イギリス王室から物言いがついたNetfrix『ザ・クラウン』に見る、実在の人物が登場するフィクションの意義

文=今 祥枝
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(※本稿の初出は『yomyom vol.66』(新潮社)です)

実在の人物が登場するフィクションの意義を考える。

 英国のロイヤルファミリーって人気があるんだなあと、ネットのニュースを見るたびに思う。特に外資系の女性ファッション誌における英国王室ネタの多さは半端じゃない。本国の記事の翻訳も多いのだろうが、エリザベス女王やキャサリン妃、メーガン妃のファッションチェックからゴシップまで、ネタには事欠かない。

 そんなロイヤルファミリーを実名でフィクションとして、徹底的にちゃかしてしまうのがイギリス。風刺コメディ「ザ・ウィンザーズ」(16〜・Netflix)なんて、初めて見る人はびっくりすると思う。あまりにもふざけているので、王室としても放置していいという感じなのだと思うが、あるいは王室批判をかわす効果を見込んだガス抜きとして許容している部分もあるのだろうか。いずれにせよ、基本的には寛大さを発揮してきた英国王室からも物言いがつき、ついには英文化相のオリバー・ダウデン氏が、すべてのエピソードの冒頭で、フィクションである旨を明確にするよう正式に要求して物議を醸しているのが「ザ・クラウン」(16〜・Netflix)のシーズン4である。

「実話に基づく物語」のどこまでが事実なのか問題

「ザ・クラウン」は英国王室を描いた重厚な人間ドラマ。後のエリザベス2世とフィリップとの1947年の結婚式から始まり、2人の子供をもうけてケニア訪問中の1952年、父国王の突然の崩御により若き女王となったエリザベスの治世と王室関係者の人間模様を描く。当初私が予想していたようなゴシップ的なノリはなく、濃密な人間ドラマが展開する作りに批評家も絶賛。視聴者にも人気の高いシリーズに成長した。

 特に歴史背景を巧みに取り入れた構成が上手い。英国王室のいざこざやらロマンスなど実際に起きたことに基づき、時の首相と女王の関係性も厚く描いており、王室の変遷と英国史をたどる面白さがある。時代の変遷と共に、変わりゆく貴族とお屋敷の使用人を描いた「ダウントン・アビー」の構造にも似ている。

 “高尚なソープオペラ”などとも言われた「ダウントン・アビー」は、アメリカで本国イギリス以上とも言える人気を得た大ヒットシリーズ。映画版まで異例の成功を収め、業界的には大きな事件だった。奇しくもメーガン妃が女優時代に出演していたドラマ「SUITS/スーツ」などの人気番組でも「ダウントン・アビー」はネタとして使われていたりして、アメリカ人は貴族の話が好きなんだなあと驚いたものだ。「ザ・クラウン」もまた人気があるからこそ、英文化相が乗り出す騒ぎにもなったのだろう。

 11月15日に世界同時配信となったシーズン4は、ダイアナとチャールズ、カミラの三角関係にフォーカスしており、配信前から世界中が興味津々で注目を集めていた。ふたを開けてみればこれまで以上のヘビーさ。問題の本質や人間の深層心理に深く踏み込んだ優れた作品であるがゆえに、いかにもこれが全て〝真実〟であるかのように思わせてしまう力があることは否めない。

 しかし前述の英政府の要請をNetflixとクリエイターのピーター・モーガンらは一蹴した。Netflixは声明で、「私たちは「ザ・クラウン」がドラマ作品であることを伝えてきたため、会員は、このドラマが歴史的な出来事に基づいたフィクションであると理解しているとの自負がある」とし、免責事項を追加する予定はないことを表明した。

 モーガンがこれまでインタビューなどで語ってきたように、極めて緻密な取材に基づいていることは理解できる。だが、ダイアナとチャールズが2人っきりのシーンで交わした会話が一言一句、その通りであるかは誰にもわからない、というのもまた真なり。映画やTV作品で起こりがちな「実話に基づく物語」のどこまでが事実なのか問題は、アメリカの映像作品には非常に多く見られる。日本では滅多に作られないが、アメリカではばんばん実名で映画やドラマを作ってしまうから。関係者の存在をないがしろにしたり侮辱するような作品はどうかと思うが、映画『スキャンダル』などを筆頭に、社会派作品においては「事実に基づき」大胆に映像化することで、意義のある作品が多く作られているという側面はある。

 そういう意味では、主人公は仮名であるしフィクションだが、米倉涼子が主演を務める事実に基づいたNetflixのオリジナルドラマ「新聞記者」(21年配信予定)には期待したいところ。いわゆる忖(そん)度(たく)ではなく細心の配慮は必須。作り手は高いレベルが要求されるし多大な責任が伴うが、高いハードルをクリアして日本はもっと実名、事実を扱った政治ドラマや社会派ドラマをがしがし作るべきだと思う。

「可哀想」な夫

「ザ・クラウン」に関しては、視聴者はこれが巧みに作られた「実際にはこうだったんじゃないか劇場」であることは理解すべきだとは思う。

 絶大な力を持つ女性が主人公の「ザ・クラウン」で、私がシーズン1から非常に興味深く見ているのは、男性キャラクターの描写だ。エリザベスの夫フィリップの場合、圧倒的に妻の方が地位も名誉も人気も高く、若い頃から自分の夢、一例としてパイロットになることなどは諦め、妻の三歩後を静かについていくしかなかった。実際にフィリップがどういう人物かということは別として、ドラマを見ながらものすごく気の毒に思えるのだった。エリザベスもそうだが、特殊な家に生まれた人々が背負っているものの大きさは計り知れない。日本の皇室のあれやこれやの問題にも通じるものがあると思うが、今の時代には「そういう家に生まれたから仕方がない」では片づけられない問題だろう。

 フィリップの場合、ギリシャ及びデンマーク王国の王子と王妃の第5子として生まれた1年後に、クーデターが起きて祖国を脱出。王制は廃止となり、亡命生活を送ったというのがざっくりとした生い立ち。さまざまな思惑もありつつのエリザベスとの結婚の始まりは、ドラマでは幸せなものに見える。

 しかし共同統治者の称号は得られず、屈辱を味わうフィリップ。一方、バッキンガムの新参者から堂々たる王冠をいただく女王となっていくエリザベス。自分は常にスポットライトの外にいて、自己実現など望むべくもなく、妻=女王の前では他の者たちと等しく膝を折り、頭(こうべ)をたれなければならない。エリザベスはフィリップにも〝役割〟を与えようとするが、その気遣いにまたなんとも言えない気持ちにさせられる。

 これはつらいよね、と同情しながら、ふと思ったのは男女が逆だったら、それほどつらくも痛々しい話でもないのかも、ということだ。国王とか政治家、芸術家だとか、映画やドラマで男性をひたすら立てて自分は夢も仕事も諦めて、家庭や家族に人生を捧げた女性像は珍しくもなんともない。だからフィリップのような女性の描写があったとしても、そこまで印象には残らないような気がする。

 一方、フィリップが現実を受け入れ、己を殺して生きる姿は自分でも不思議なほど気の毒に思えてしまう。長年にわたって映画やドラマの女性の役割、描写に慣れてしまった私は、他方で男性に対するステレオタイプもまた自分の中に根強くあり、「男性なのに可哀想」と思っているということに後から気づいた。確かに当時の時代背景や生い立ちによって世間がものすごく自分に注目しているという点からも、フィリップの自尊心の傷つき方は大きいと言えるのかもしれない。男性としての苦しみに同情する気持ちと、でもなあ、女性はずっとそういうことに苦しんできたんだから、と非難がましい気持ちを行ったり来たり。

 「ザ・クラウン」はアンサンブルドラマなので、フィリップ主体のエピソードは1シーズンに1話程度なのだが、私のベストエピソードの一つはフィリップのミッドライフ・クライシス(中年の危機)を描いたシーズン3の第7話「月の正体」。人生折り返し地点を過ぎた私には身に染みる普遍性があって、だから「ザ・クラウン」は面白いんだよなと思わせてくれる。フィリップには自分の人生で誇れる功績など何一つない、何もかもが虚しくなって情緒不安定になった時期に、月面着陸に成功して世界的な英雄となった宇宙飛行士たちと話をする機会を得る。それはもう有頂天になるのだが、年若い宇宙飛行士たちが偉業を成したことに対して驚くほどにあっけらかんとしているように見え、深遠な哲学やミッドライフ・クライシスを脱するような知見を得ることもできず、フィリップは愕然とする。そのさまがなんとも痛々しい。

 しかし、これもまた夢も仕事も捨てざるを得なかった女性が中年になって、虚しさから荒(すさ)んだとしたらどうだろう。大抵は更年期障害などと言われてきたに違いない、そんなふうに勝手に想像しては苦い気持ちに。

共感できない女性キャラクター

 人間誰しも自分の人生これでよかったのかと思う瞬間があるだろう。しかし、2000年代にトレンドとなったミッドライフ・クライシスものは「ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア」(99〜07)から「ブレイキング・バッド」(08〜13)まで多くの大ヒットドラマに代表されるように、なんとなく家計を背負って立つ一家の主人としての男性に許されたもののように描かれる作品が目立っていた。壊れた中年女性が最高だった「ナース・ジャッキー」(09〜15)あたりは頑張っていたと思うが、薬物中毒で不倫中の看護師という女性キャラクターは一般的に「共感できない女性」として批判も少なくなかった。この作品を仕事においてさまざまな形で売り込んだ私の実感としては、男性より、女性からの辛辣な感想や嫌悪感の方が強かったように思う。

 最新の海外ドラマについて主人公が男性だとか女性だとかで語るのももはや時代遅れな気もしつつ、破天荒な男性キャラクターは共感を集めやすいが、女性キャラクターは難しいというのは現実的にある。

 一方で、共感を目指さないキャラクターを描く面白さが海外ドラマにはある。「ザ・クラウン」で描かれるエリザベスが、まさにそうだ。

 #MeToo後の世界では、女性の連帯やシスターフッドといったキーワードがさかんに叫ばれ、それをテーマとした作品が増えた。大事なことだと思いつつ、最近ではその盛り上がりを一歩引いてみてしまうことも少なくない。〝女性の敵は女性〟なんていう考え方は、もはや過去の遺物だが、安易なテーマ設定や描写は問題の本質を隠してしまうかもしれないと感じるからだ。

 その点でも「ザ・クラウン」のシーズン4は前3シーズンに比べて優秀。英国初の女性の首相誕生となったマーガレット・サッチャー(ジリアン・アンダーソンの名演は必見)とエリザベスの女性キャラクター同士の対比がよく効いている。エリザベスが女性だからという理由だけで決してダイアナの味方になったりはしないのと同様に、ドラマで描かれるサッチャーもまた血の滲むような努力を重ね、政治の頂点に上り詰めた女性として、さあ女性たちよ、共に頑張りましょう、優秀なあなたたちを閣僚に登用しましょう、とはならない。

 ずらりと居並ぶ男性閣僚に囲まれたサッチャーの姿に、男性社会でいかばかりのプレッシャーにさらされただろうかと胸が痛むも、当の本人は「能力のある女性の人材がいない、そもそも女性は高官に向いていない、感情的になりすぎる傾向がある」と切って捨てる。政治の道へ導いてくれた父親を尊敬する一方で、目標を持たず、自助努力が足りない女性の代表として母親を軽んじる。さらには男女の子の母でもあるサッチャーが、息子びいきで娘を著しく差別していることの自覚が本人に全くないといった描写に業の深さを感じる。

 エリザベスとサッチャーは境遇も考え方も価値観も異なる女性だ。だが、孤独に闘いを挑んできた、あるいは男性社会を生き抜いてきた者同士、相通じるところがあった。そのシーンにはぐっときた。2人は決して仲が良くはなかったが、その間に確かな〝連帯〟があったこともまた真実なのだろうと思う。

自分の価値観を更新するために

 こうした女性たちの姿を描くことによって、何に目が向くかといえば、背景にある社会的・組織的な構造上の問題、男性優位の社会を女性がどのようにしてサバイブしているのかということ。そうした社会で男性と渡り合い、成功を収めた女性が、女性の連帯をはばむ存在になるというある種のパターンは、以前に当連載で取り上げた「ザ・モーニングショー」のセクハラ・パワハラの被害者が結果として加害者側に与(くみ)するという図式に通じる。成功できないのは、被害に遭うのは、賢く立ち回らないから、あなたが弱いから、努力しなかったから。これらはつくづく根深い問題なのだ。

 誤解を恐れずに言えば、私もサッチャーのような考え方をどこかで持っている。自助努力を尊び、結果が出せない人々について本人の努力が足りないと考えがち。特に、経済的に自立しておらず、働いたことがないという女性に対しては厳しい目というより、どうしても反発や偏見を抱いてしまう。そもそも人がどういう生き方を選ぼうと、その善し悪しをジャッジするなんて、おこがましい話なのだが。

 今は瞬間的にそう思ったとしても、そこで立ち止まり、本人が頑張るとか頑張らないとか以前に、社会的な構造の問題に目を向けなければならないケースがたくさんあることについて理解し、問題の本質を見極めようとする。そういう習慣は身についたので、自己責任、自助努力といった言葉が浮かんだ時は要注意、と自覚的になった。だがその道を邁進して、最後は失脚するドラマのサッチャーに共感する自分はいる。

 そういう自分を昔は「男性的」だと解釈していたが、男女に関係なくこういう考え方を持つ人間は、もちろんいるわけで。理解したからといってなくなるわけでもないのだが、自分にそうした面があることを「女性の敵は女性」と昔なら言われたキャラクターを見るたびに思い出す。そして考える。

 #MeToo以降、社会の急速な変化とともに自分の価値観を何度も問い直した。その過程で海外エンタメを見続ける中で、私はやっと女性の権利を語る時、それは男性の問題でもあるということを認識した。例えば本誌で現在連載中の清田隆之氏の原稿や著書などを入り口として、今更ながらに男女平等ってなんだろうなと思っている段階なのだ。あきれられそうな気もするが、事実そうなのだから仕方がない。現時点では、どうしても相反する感情に苛まれてジレンマが生じてしまうところから抜け出せないが、そんな感情にもとことん付き合おうと勝手に思っている。

 「ザ・クラウン」にしても、たかが英国王室のゴシップじゃん、という色眼鏡で作品を見ない人もいるはず。でもゴシップ的な要素に引かれて見たら面白くてつい全話見てしまった結果、結構深いところまでもぐってしまう、ということもあるだろう。現代の海外ドラマの秀作は多層的で多角的な視点があり非常に複雑だ。視聴者の意識が少し変わるだけで、作り手の意図、あるいはそれを超えたところにさまざまなメッセージを読み取れる可能性はより広がる。

 そんなこんなを考えていると、どんぴしゃのものに出会えることは本でも映画でもTVでもままある。春に見たアメリカの新作で、今年私が最も食らいついたドラマの一つがケイト・ブランシェットほか実力派が豪華共演の「Mrs. America(原題)」(WOWOWで21年放送予定)。現代フェミニズムに反対の立場を取り、男女平等憲法修正条項(ERA)に反対するキャンペーンで知られる超保守派のフィリス・シュラフリーと、フェミニズム運動家たちの闘争を描いた意欲作だ。

 両極端な立場を取る双方の言い分が、とにかく矛盾だらけ。共和党から上院議員選に出馬するも二度とも落選したシュラフリーは、政治という男性社会で差別と挫折を味わうも、今度は男性政治家や有力者には徹底して下手に出て、ERAに否を唱えることである種の頭角を現す。簡単に言うと、ここに保守派の人々が乗っかっていくのである。

 シュラフリーはERAとは女性的に魅力がなく結婚できないエリートの女性=フェミニストが専業主婦を愚弄するものに他ならないと主張。男女平等とは女性の特権、〝専業主婦である権利〟などが取り上げられることだとあおり、「ママとアップルパイ」を標語にパステルカラーの服に身を包み、手作りパン持参で活動を展開する。女性のジェンダーロールに異常なこだわりを見せつつ、自らの家事は黒人お手伝いさんに任せ、子育ては義理の妹に託していることは言わない。などなど、彼女の矛盾を挙げたらキリがないが、現代のフェミニズムに対する誤解や偏見を考える時、そっくりな主張を展開している人をよく見かけるなと思う。

 一方で、実在の有名フェミニストたちもまた相反する主張が多く、激しい口論が絶えない。特に〝女性としての幸せ〟をめぐる見解は生き方、個人の問題だとも思うが亀裂が入りがち。全体として〝連帯〟とは程遠い。メインキャラクターの女性たちはみんな複雑極まりなく不愉快ですらあるが、どの人物のこともわかるなあとも。

 だからこそ視聴後、なぜこの人たちを知らないで生きてきたのだろうかと思わずにはいられなかった。矛盾に満ちた女性たちの主張に耳を傾け、その複雑さを咀嚼するのに四苦八苦しながら自分の中の矛盾やジレンマも当然だなと思えたから。興味は尽きない。

(※本稿の初出は『yomyom vol.66』(新潮社)です)

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