近頃“ありのままの私”が巷に溢れかえっている。
「ありのままの自分を愛そう」
「あなたは生まれながらにして美しい」
「私はありのままでパーフェクトな存在だ」
SNSにはこうした言葉が躍る。この流れを牽引しているのは、欧米を発端とした「ボディポジティブ」ムーブメントだ。
ボディポジティブとは、身体能力、性別、人種、外見などに関係なく、誰もがありのままの自分を愛することができるような社会にしようというムーブメントだ。
これによって下着ブランドのビクトリア・シークレットが初めてプラスサイズモデルのアリ・テート・カトラーを起用したり、尋常性白斑という皮膚の病気を抱えるウィニー・ハーロウや見事に繋がった一本眉を持つソフィア・ハジパンテリなどのモデルが活躍したり、またインスタグラムではインフルエンサーたちが摂食障害や見た目のことで悩んだ過去や、自らのリアルな体を包み隠さずにさらけ出し、ポジティブなメッセージ送っている。
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―「サンプルサイズ」と書かれた服を着てランウェイを歩くテス・ホリデー
このムーブメントのコンセプトは、本当に素晴らしいものだと思う。しかし、それを掲げた人々が語りかけてくる“ありのままの私”像に、妙な違和感を覚えてしまうのは、私だけだろうか。
もし私がありのままの姿だったら――。
私は、デブでしゃくれ猪木アゴのニキビ女だった。そしてそれが嫌だったから、痩せて肌を手入れして歯列矯正をして猪木じゃなくなった。
そうやって自らの力で自分自身を変化させることができた経験は私に、自分に自信を持つための小さなきっかけを与えてくれた。
しかし最近、そんな私のような存在は「ありのままの自分を受け入れられなかったかわいそうな人」として扱われ、このムーブメントに乗ってはいけない人間であると言われているような気がして、肩身の狭い思いがしている。
本来の意味からかけ離れていく「ボディポジティブ」
私は間違いなく、“ネガティブ・ボディ・イメージ(自身の体へのネガティブな感情)”を持つ人間だった。
思春期は特に、自分はメディアが発信する美しさの“正解”からかけ離れた外見をしているように感じ、自分に自信を持つことができなかった
痩せなければ、綺麗でいなければ、若くいなければ――。といった強迫観念を作り出すような、今までの画一的な美の基準に問題があることは確かだ。
そういった意識を変えようという、このボディポジティブのコンセプトには大いに賛同する。
しかし近年、どうもこのムーブメントが本来の意味から離れ、違った方向に向かってしまっている気がするのだ。
自分の体型を気に入っていない人がその体型を変えたいと思うこと、肌を綺麗にしたい人がスキンケアに励むこと、自分の一重まぶたを好きになれない人が二重まぶたに整形することなど――人がいまの自分を変えたいと望むこと、そのことを批判する人々が目につくようになってきた。
最近では、ボディポジティブの話題で必ずといっていいほど話題に上がるラッパーのLizzoが、エクササイズ動画を公開したことに対して、肯定的なコメントに混じって「あなたはそのままで美しいのに、なぜ変えようとしているのか」「自分のありのままの体型を受け入れられないなんてかわいそう」「あなたは自分の体型を恥じているのだ」といったコメントがみられた。
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彼らは、自らの体を「変えたい」と願うひとに、「あなたはそのままで美しいのに」と言う。どうして、他人が思う「美しさ」を、強要されなければならないのか。
そもそも、なぜ“美しくなければ”ならないのか。
私はそこに疑問を抱いた。
(その後Lizzoは、自分の体型についてとやかく言う人々に対し「あなたの理想ではなく、自分の理想の体型になるためにワークアウトしているの。それがどんな体型かなんてあなたたちには関係ないこと」と反論した)
「あなたは美しい」という言葉はなんの解決にもならない
見ず知らずの人に「あなたは美しい」と言い、それに対する人々のリアクションを収めたこの動画は、累計2200万回超の再生を記録している。
この言葉をかけられたほとんどの人は笑顔になり、コメント欄の多くは「今まで見てきた動画の中で一番素晴らしい」「みんな違ってみんな美しい!」などの賛辞で溢れていた。
しかし、この動画の中で1人だけ、「美しい」と言われて激昂し「黙れ! 私をからかってるんでしょ」と敵意をむき出しにした女性がいた(動画の1:40〜2:04)。その人に対しては「なんてかわいそうな人なんだ」「彼女は問題を抱えてる」といった同情や批判の混じったコメントが多数寄せられた。
そのことに、私は得体の知れない気持ち悪さを感じた。
「ありのままが美しい」というボディポジティブは、自分が美しいか、美しくないかを見ず知らずの他人に勝手にジャッジされることに「NO」と言っていたはずだ。これでは、そのジャッジが「ブス」でなはく「美しい」に変わっただけだ。どうしてそれを、素直に受け止めなければならないのか。
この「人を見た目で判断する」という行為――それによって、私たちはいままで十分に苦しんできたのではなかったか。
この動画は「どんな人もそのままで美しいのだ」というメッセージを伝えるために作ったのだろうし、悪意がないことなど重々承知だ。しかしこれは、ランダムに人を捕まえて「あなたは醜い」と言っているのと何ら変わりがない。
なぜなら、人の見た目だけを見てその人が美しいか否かを本人以外の人が定義すること――この行為そのものが、この問題の根本だからだ。
SNSに自撮りを投稿し自己肯定感を得ることの危うさ
これと同じことは、あちこちで起こってる。
インスタグラムなどでインフルエンサーの人たちが、自分の体や過去をさらすことによって「私は強い、美しい、自分のことが好き」といったメッセージを送ること、そしてただそのことによって、顔もわからない誰かに認めてもらおうとしているさまが、私には非常に空虚に映る。
自分に自信をもつことが大切だというメッセージは十分にわかる。しかしその自信は、誰かに外見を判断してもらうことによって得られるものではない。
インフルエンサーは「私が自分のありのままの姿を投稿することで、私と同じような悩みを持つ人に、ポジティブなメッセージを送り自信を持って欲しい」といったことをよく口にするが、SNSで自分のビキニ姿を晒すことがありのままでポジティブなメッセージといえるのかどうか、わからない。
私には、外見への批判によって傷ついた心を、外見への賞賛を求めることによって癒そうとしているように見えてしまう。
この、誰かからの承認によって自己肯定感を得ようとすること自体が問題なのではないかと私は思う。
もちろん、全てのセレブリティやインフルエンサーがそうだと言っているわけでは決してない。しかし上記のような、賞賛を求めてボディポジティブを提唱している(ように見える)人たちの声が年々大きくなってきているような気がする。
プラスサイズの体は美しい、そばかすだらけの肌は美しい、白髪は美しいなどと、メディアはいまも次々と「新たな美」を生み出し続けている。しかしそれは、また新たな「その美の基準に当てはまらない人」を生み出し、排除することに繋がる。
人から与えられた「美しさ」の定義にこだわり続ける限り、一生私たちは“ありのままの自分を愛すること”などできるはずがない。
私たちの体は、誰かに「美しい」とか「醜い」などと定義されるために存在しているのではない。
“ありのままの私”ってなんだろう
ボディポジティブとは、誰もが“自分を愛すること”ができる社会を目指すムーブメントだ。これは決して、誰かに自分の思う美の基準を押し付けたり、外見によって人から賞賛を得られるようになることを目標とするものではない。
完璧である必要も美しいと感じる必要もなく、自分は自分であるということ。
その人が太っていても傷があっても痩せていても何であっても、見た目によって人が人を判断しないようになること。
“多様な美しさを認める”のではなく――誰かが誰かの体を美しいとか美しくないとかそういった目で見ることをやめてみたら、私たちはもっともっと自由になれる気がする。
私の体は、私の体なのだ。
それ以上でもそれ以下でもなく、私やあなたの体はだれかにジャッジされたり、消費されたりするためにあるのではない。
整形していてもいい、
太っていてもいい、
痩せていてもいい、
傷跡があってもいい、
克服しなくてもいい、
美しくなくてもいい。
私の体は私のものであり、誰の承認を得なくてもここに存在することができる。
それが本当に“ありのままの私”を生きるということなのではないかと思う。