
GettyImagesより
「あ、外人(ガイジン)さんだ」
「外人なのに日本語うまいね」
「外人はうるさいなぁ」
上記は全て、過去私が使ったことがある台詞である。
昔、私は“外人”という言葉を「外国人っぽい人」を表すときに特に深い意味もなく使っており、この言葉についてなんら疑問に思ったことなどなかった。
そんな状態のまま日本を離れ、アメリカ、カナダ、イギリスなどの国で生活をするようになり、驚いたことがある。
そこでは、だれも私のことを「外人=Foreigner、Outsider」と呼ばなかった。
面と向かって言われたことがないだけなのかと思いきや、日常生活の中でだれかが誰かに対してそういった言葉を使っているのを聞いたことがない。
私は「日本で生まれ育った日本人で今ここに住んでいる人」であり、「外人」ではなかった。
それはひとえに、上記の国々が多民族国家であることが大いに関係していると思うのだが、それにしても「自分たちと、それ以外」という概念が彼らには存在していないのだ、ということは私にとって大きなカルチャーショックだった。
住んでいる人がほぼ全員他国にルーツがある人ばっかりみたいな国で“外人(自国の人ではない人)”なんて言葉を使ったら「どういう意味?」と混乱を招くから使われていないだけで、日本に住んでいるのはほとんど日本人なんだから、「外人」という言葉を使って区別することになんの問題もないだろう、という意見もあるだろう。
しかし日本に住む外国人の割合は、日本の総人口の2%を超えた。現在100人に2人が外国人という計算となり、これは決して少なくない数だとは言えないだろうか。
日本人の人口は、11年連続で減少を続けており、「日本に外国人は少ない」といえる状況はそう長くは続かないだろうと予想される。
“日本人”と“それ以外”という線引きを明確にする「外人」という言葉を使い続けることにを、無理が出てくることは確実だ。
近頃「外人」という言葉が差別的だとして「外国人」という言葉が使われることが多くなってきたが、根本の意識は同じことだという気がする。
では、私たちがこれから、「外人」「外国人」という言葉を使うことをやめるとして、一体なんて言えばいいんだろう。
いや、しかしそもそもなんで私たちは、彼らのことを「自分たちとは違う人」として分けているんだろう?
本記事に記す私の「外人」にまつわるエピソードは恥ずかしながら全部本当のことである。
私の行動を「ばかなやつだなぁ」と笑いながら「外人」という言葉を使い続けることが本当にいまの日本に必要なのか、いっしょに考えていくきっかけになったらいいなと思う。
「日本人と、それ以外の人」
「外人」という言葉を聞くたびに、まず真っ先に思い出すのは、幼い頃に知り合ったアメリカ人のRさんのことだ。
彼は私の実家の隣に住んでおり、もう日本で暮らして20年あまりの日本語が流暢な人だった。家族も日本にいるし、これからもずっと日本で暮らすつもり、と話していた。
私はたまにそこの家の夕飯に呼ばれ、自分の家では食べたこともない巨大なミートボールの入ったパスタやミートローフなどをいただいていた。
そこでRさんはたまに、「また外人って呼ばれた」などとボヤいていた。
私はパスタをすすりながら「だって外人じゃん」などと冗談めかして言い、そのたびに彼は小さく笑って、それからその話題を口にしなくなった。
今なら、Rさんがなぜボヤいていたのかが、わかる気がする。
もう人生の半分以上を日本で過ごしているのに、いつまでも「外人」と呼ばれて「よそ者」扱いされる悔しさ。日本に住んで、日本語を話して、日本文化を理解していても、いつまで経っても、逃れようもなくRさんは、日本では「外人」なのだった。
あの時私は、Rさんの気持ちなど、みじんも想像することができなかった。「外人」という言葉を私たちが使うことによって、疎外感を感じ、傷つく人があること知らなかった。
「別に差別的な意味はなくて、ただ日本人以外って意味で区別するために使ってるんだから」
といったようなことを、私はRさんに言ったような気がする。
それを聞いた時、Rさんはどう思ったんだろう。
私が逆の立場だったら、「そもそもなんで区別するんだ」と悲しい気持ちになると思う。その当時の自分の、想像力のなさと無知を軽蔑する。
日本人と、それ以外。
私の知らない間に脳みその奥深くまで浸透していたこの「日本人と、それ以外」を自動的に仕分けしてしまう考え方と、それに付随する差別や偏見を拭い去ることは尋常じゃなく大変で、きっと私は国内外様々なところでたくさんの人を不快な気持ちにしていただろう。
長い欧米諸国での生活を終え帰国してから、私はだんだんと自分の中にあった「無意識の差別」に気づきはじめた。
それに気づいてから私は、できるだけそれを意識することにした。差別をないものにするのではなく、あるものとして、もう一度同じことが起こらないように、自分の言動や行動を意識した。
それは例えば、こんなことである。
アメリカ人男性が日本人女性をナンパしているのを見ながら、「やっぱ外人って積極的だなあ」などと思った自分に即座に「×マーク」をつける。「あの人積極的だなぁ」でいいじゃないか、なんでわざわざ「外人だから」といった言葉を私は使っているんだ。
無意識に、彼らを「私たちとは違う人」として扱っている、いかんいかん!
……といったことの繰り返しで、非常に疲れるし、結構キリがない。一度染み付いてしまったこの「外人」という言葉を通して得た「日本人以外=よそ者、自分たちとは違う人」という考え方は、今でもふとした時にすぐまた戻ってくる。戻ってくるなと思っていても、戻ってくる。
今でもどこかのだれかには「どうしてそんなことをしているのか。“外人”と呼ぶことは、差別なんかじゃない。ただの区別だし、悪気なんか一切ないよ」と言われそうなものだが、私は、Rさんの悲しげな表情が忘れられない。
あの時どう言えばよかったのか、いまも考えることがある。
「差し支えなければ、元々はどこの国の出身か教えていただけますか?」
とある夏、私はギリシャで貧乏旅行をしていた。
ギュロス(ピタと呼ばれるパンに肉とポテトフライを巻いたカロリーの爆弾)ばかりの毎日に飽き飽きしどうしてもアジアっぽい食べ物を食べたかった私は、炎天下の中町外れの中華料理屋まで歩いた。
するとそこには、ギリシャ人のおじさんが1人ポツンと厨房におり、他に従業員も客もいなかった。
それをみて、正直いうと私はがっかりした。私はとっさに、ギリシャ人のおじさんに、中華料理が作れるはずがないと思ったからだった。
しかし予想は外れ、素晴らしいチャーハンと餃子が出て来た。私はおじさんに「びっくりした、美味しい。おじさんは中国で修行してたの?」と聞いた。
するとおじさんは「人生のほとんどを、中国で過ごしたよ」と言った。
それから私たちは、料理の話やここ最近の天気の話など、いろんな話をした。おじさんは「日本料理が好きだ」と言ったので、「ニシンそばが美味しいよ、日本行ったら食べた方がいいよ」と私は言った。
それを聞いてから、おじさんは私に「差し支えなければ、元々はどこの国の出身か教えていただけますか?(Where are you originally from if I could ask?)」と聞いた。
私は、一瞬あっけにとられた。
それから「こんなに日本語訛りの英語で日本の話してたんだから、日本人に決まってるじゃん、何を今さら」と笑った。
するとおじさんは「日本人の見た目をしていて日本に住んでいても、日本人じゃない人もいるでしょう。聞かないと、わかりませんから」と言った。
それに私は、衝撃を受けた。
杏仁豆腐をもらって笑顔で店を送り出されてから、帰り道で、いろんなことを思い出していた。
私の友人で、両親が日本人だけどイギリスで生まれ育った日系イギリス人の友達がいる。
彼女は、初対面のイギリス人に「英語うまいね! どこの国出身?」と聞かれるたびにうんざりした顔をしながら「あなたと同じ国」と答えていた。
「英語うまいね、って私生まれた時から英語喋ってるから当たり前じゃん」と彼女は笑いながらも、怒っていた。
日本人っぽい見た目だからと言って日本人だとは限らず、人によっては自分の生まれた国で自分と同じ国籍の人からそういう質問を生涯投げかけられ続けて苦痛に思っている人もいるのだ、ということを私はかつて思い及んだことがなかった。
もしかしたらおじさんは、ギリシャに住んでいるギリシャ人の見た目だったけど、中国人だったのかもしれない。もう知る由もないが、私は勝手に、おじさんがギリシャ人だと決めつけ、その前提で話をしていた。
おじさんは否定も肯定もしなかった。
もしかしたらおじさんは、いつもいつも「ギリシャ人だ」、と勝手に決めつけられることに飽き飽きしていて、自分が「中国人です」と言った時の周囲の「えー!」というリアクションに対応するのがもう嫌になってしまったのかもしれない。
世の中には、私が思ったよりもずっと、複雑な背景や文化を持った出自の人がたくさんいるということ。
その人の見た目だけでその人の生まれた国や育った国を推測することはできないこと。
頭ではわかった気になっていたそれらのことを、私は本当の意味で理解できていなかったのだ、ということにやっと気がついて愕然とした。
「外人」は「自分たちとは違う」と思って、安心している
小学校の頃クラスにいたハーフの女の子のルーツが、どこの国なのかすら私は覚えていない。「外人」と皆が言っていた。
その子が一体どこの国のどんな文化をもつ家庭で育てられたのか、私たちは一切興味を持たず、ただ「外人」として彼女をカテゴライズした。
“日本人らしくない”見た目の人を「外人」と呼び、「よそ者」として扱うことで、私たちはその“異質さ”にフタをすることができる。
ざっくりした「外人」という言葉をあてはめることによって、その人が一体どこの国からやってきてどんな文化を持っているのかを知る努力を放棄している。「自分たちとは違うんだ」と言ってしまうことで、安心していられる。
「外人」という言葉を使う人のほとんどに、悪意がないことは確かだろう。しかし、ここで使われている「外人」という言葉は、たしかに彼女を傷つけていた。
もし彼女が大人になって、どこかの誰かにまた「外人」と呼ばれて抗議し「大げさだよ。差別とかそう言う意味で言ったんじゃないよ」などと言われて、納得できるだろうか。悪意がなければ、なんと言ってもいいのだろうか。
どこかで誰かが傷つく可能性のある言葉を、まだ私たちは使う必要があるだろうか。
「ガイジンじゃない、ニンゲンだ」
と、これらの文章をぐるぐると考えながら書き直しの無限ループをしていたら、2月11日の夜にNHK総合で『ワタシたちはガイジンじゃない!』という番組が放送されていた。
宮藤官九郎作・イッセー尾形主演、舞台は日系ブラジル人が多く住む団地の一角。そこで彼らが生きてきた悲喜こもごもの歴史をイッセー尾形が1人芝居でみせ、実際そこに住む人々へのインタビューを交えながら日系ブラジル人から見た“日本人あるある”や、彼らを「ガイジン」「労働力」として見てきた日本社会を描いていた。
番組には、ポルトガル語の字幕がついていた。私はかつて日本のテレビ番組で、外国語の字幕がついているのを、見たことがなかった。
イッセー尾形が「ワタシたちは、ガイジンじゃない! ニンゲンだ」と歌っていた。「ガイジン」という言葉を使われて、よそ者として無意識に差別されてきた日系ブラジル人の人たちが、泣いていた。
私も一緒になって、テレビの前で泣いた。
番組の中で、インタビューされた日系ブラジル人の女性が「日本もここ十数年で変わってきているというのを感じます」というコメントを残してくださっていたのが、希望だった。
もし私たちがこれから、東京オリンピックでも技能実習生でも観光でもなんでも、日本の外から人を呼びたいと願うなら、きてくれた彼らを“外人”という言葉にカテゴライズして思考停止に陥ることだけは絶対にあってはならないと思う。
彼らがどこからきて、どこに住んでいて、どういう思いでここにいるのか。“外人”という言葉を使うことをやめたら、きっとその人自身が見えてくる。
そこに浮かび上がってくる人は、どんな人だろうか。きっとそこには、私たちと何も変わらない、おんなじ人間がいるはずだ。