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連載第1回で書いた通り、この企画はもともと、2019年9月から東京・下北沢の本屋B&Bで行った「韓国現代文学講座」の続きとして始まりました。当講座は「韓国の小説の翻訳がたくさん出ているけど、どれから読んでいいかわからない」という読者の声に応え、一種のブックガイドとして、さまざまな韓国の現代小説(今、日本語で読めるものを対象として)の背景をお話しようとスタートさせたものでした。
講座の第1回では『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著、筑摩書房)を扱いました。つまり、日本で話題になった最も新しいものを取り上げ、そこからIMF危機、光州事件、軍事独裁政権下での再開発と労働運動、4・19革命……と歴史を遡っていったのです。
「現代文学」と銘打っていますので、扱う範囲は1945年以降の作品ということになり、先回で取り上げた解放直後の小説で一区切りなのですが、連載を終えるに当たって、韓国と日本の近代小説について少しだけ雑感を書いて終わりにしたいと思います。
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韓国の文学史を語るとき、どうしても欠かせない人物として真っ先に名前が挙がるのが李光洙(イ・グヮンス)です。
この人については、『李光洙ーー韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』(波田野節子、中公新書)という良い評伝があるので、興味のある方はぜひ読んでいただきたいと思います。
彼は1892年に生まれ、明治・大正と2度にわたって日本に留学し、10代で文筆活動を始めました。25歳のときに、韓国文学史上で最初の近代的長編小説とされる『無情』を書きました。以後、1950年の朝鮮戦争開戦時に北朝鮮軍に拉致されるまで30年あまり、小説、論説など膨大な量の作品を残しています。
その業績は文学にとどまらず、作家であると同時に独立運動家、社会運動家、教育者、言論人でした。一貫した民族主義者であり、民族の実力を高めて発展させ、自立を勝ち取るのだという考え方に依拠して奮闘した人物です。常に大衆的な人気を誇る作家であり、一時期は確かに民族の精神的支柱でした。
李光洙について、ときどき「韓国の漱石」という表現を見かけることがあります。しかし、それは部分的にしか当たっていないと思います。李光洙ほどの巨大な影響力を持った作家は昔も今も日本にはいませんし、そういう人物がいなくても済んだところが、日本と韓国の違いでもあります。
その存在感は中国における魯迅に通じるものがありますが、しかし李光洙には「朝鮮の魯迅」と言いきるわけにもいかない事情があって、この人の肖像をさらに複雑なものにしています。そのことは後で述べます。
日本語で読めるこの人の小説は、『無情』(羽田野節子訳、平凡社ライブラリー)、『端宗哀史』(金容権訳、日本評論社)など数冊しかありませんが、2020年に代表作の『無情』が気軽に手に取れる文庫(HL判)になったのはたいへんうれしいことです。この1冊だけでも、李光洙の啓蒙作家としての面目を十分に感じることができます。
『無情』が書かれたのは1916年の冬でした。当時李光洙は25歳で、早稲田大学哲学科の留学生でしたが、朝鮮総督府の機関紙である『毎日申報』に、朝鮮初の新聞連載小説としてこの作品を書いたのです。一大学生に長編小説とは大胆なようですが、李光洙は10代のころからすでに文名高かったので、理解できないことではありません。
当時李光洙が住んでいた下宿は高田馬場の、現在、早稲田松竹という名画座がある辺りだったそうです。そこで彼は、新聞社からの急な要請に応え、不眠不休で『無情』の前半70回分の原稿を書きました。超人的な仕事といえるでしょう。
それとほぼ同じころ、目と鼻の先に夏目漱石がいたのです。「漱石山房」と呼ばれた早稲田の自宅で、同じ1916年に漱石は『明暗』に取り組んでいましたが、執筆半ばの12月に倒れて自宅で亡くなります。
それと入れ替わるように李光洙は『無情』を仕上げて朝鮮に送り、翌1917年の元旦から6月にかけて連載が始まり、熱狂的な人気を獲得しました。
漱石最後の新聞小説『明暗』と、李光洙にとっても韓国にとっても初の新聞小説だった『無情』が、同じ1916という年に同じ高田馬場で書かれていたと思うと、不思議な気持ちになります。彼らは確かに、ごく至近距離にあって、それぞれの近代を模索していました。
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さて、李光洙の初の長編小説『無情』は、いろいろな面で漱石の『三四郎』(岩波文庫ほか)を思い出させます。二作の間には8年の隔たりがありますが、どちらも青春小説であり、新教育を受けた若い男性を主人公にしています。
文章も平易であり、文字使いを現代風に改め、字句や事柄に註釈をつけてやれば、現代の若者でも苦労なく読むことができる点も似ていると思います。
けれども、二つを並べて読んでみると、やはり彼我の違いは非常にはっきりしています。そしてこの違いには、現在にもつながる韓日の小説の違いが決定的に現れているようにも感じられるのです。そのことについて少し書いてみましょう。
『無情』の主人公は、貧しい生まれにもかかわらず日本に留学して、京城の学校で英語を教えている教師、李亨植(イ・ヒョンシク)です。この設定には李光洙自身の経歴もかなり混じっていますし、英文学徒であるところは三四郎と同じですね。
そして、亨植と三四郎は、優柔不断な男である点も似ています。しかし亨植の優柔不断さは三四郎の比ではありません。そして、主人公の優柔不断さゆえにドラマが面白く展開するという、なかなか乙な趣向を備えています。
話の中心になっているのは、亨植と二人の女性の三角関係です。一人はアメリカ留学を控えているお金持ちのお嬢さん善馨(ソニョン)。もう一人は、かつて亨植のいいなづけのような存在だったのですが、一家が没落したために花柳界で働いている英采(ヨンチェ)です。もちろん二人とも美人であり、亨植はその間を定見なくふらふらし、ひどいときは五行おきぐらいに考えがころころ変わります。
その無定見さは理解しがたいほどで、読みながら「何たる情けないやっちゃ」と思わずにいられませんが、それだけに読者は我を忘れて亨植を監視することになり、その勢いでぐいぐい読み進んでしまうのです。一方、亨植を取り巻く女性たちは、現在の読者が読んでもはるかに理解しやすい切実な悩みを持っており、感情移入しやすい人物造形になっています。
従って『無情』は、100年以上前の作品にもかかわらずあまりマッチョな印象はなく、限界はあるものの、新時代を生きる女性たちの物語でもあるのです。特に、旧時代の因習の被害者である英采のけなげさは伝統的な物語にも通じるところから広い読者の共感を集め、これを読むために何キロも歩いて新聞のある町まで行く者がいるほどだったといわれます。また、後に映画化されたときは英采が主人公となっていたそうです。
物語は終盤になって急速に展開し、亨植が急に民族指導者になるという使命感に目覚め、「教育によって朝鮮を救うのだ」と意気込みます。『無情』というタイトルから、植民地のつらく悲しい現実を描いた小説を想像するかもしれませんが、実は「無情」とは、亨植が自分自身に対して「僕は何と無情だったんだろう」と後悔している言葉なのです。
ラストシーンでは、登場人物みんながそれぞれ留学して学問を修め、朝鮮に明るい未来をもたらすだろうと予言され、「我らは我らの力で世の中を明るくし、情を有らしめ、楽しくし、豊かにし、堅固にしていくのだ。楽しい笑いと万歳(マンセー)の歓声のなかで、過去の世界の喪を弔する『無情』を終えよう」と希望が歌い上げられます。もちろん、彼らの恋愛も収まるところに収まり、全員が幸福になるという趣向です。
李光洙の小説はリーダブルで、メロドラマ性も高く、しばしば通俗的だとして批判も受けてきましたが、それは同時に高い啓蒙性と関係があります。『無情』を書いた当時の李光洙の主張は、「欲望を教育する」ということにありました。つまり、旧時代の倫理に束縛され、生まれついた運命に甘んじるしかないと諦めている若い人々に向けて、「欲望を持っていいんだ、運命に縛られなくていいんだ」ということを懸命に説くものだったのです。
『三四郎』があくまでさりげなく、そこはかとなく、それゆえに愛されている小説であるのに比べ、『無情』の啓蒙性は際立っており、その輪郭は原色で、鮮やかです。