李光洙と夏目漱石、両国を代表する文豪の対比から見える日韓が歩んだ「近代」/斎藤真理子の韓国現代文学入門【6】

文=斎藤真理子
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 さて、『無情』によって一躍有名作家の座に躍り出た李光洙は、2年後の1919年には、3.1独立運動に先立って東京で「2.8独立宣言」を起草し、上海に亡命して韓国臨時政府の樹立に参加します。こうして、机上の世界に終わらない知識人生活を本格スタートさせ、生涯、自民族の望ましい長期的・短期的な身の振り方について責任を負いつづけるという、とてつもない人生行路が始まりました。

 先に「李光洙を韓国の魯迅と言い切るわけにいかない」と書いたのは、そこから約20年後の太平洋戦争末期に彼が日本への協力行為により、「親日派」、つまり「民族反逆者」として激しく指弾されたことによります。

 今、李光洙といえば、その名を知らない人もいないでしょうが、憎むべき民族の裏切り者の代表という烙印も忘れられることはありません。これだけの栄光と悲惨の落差を経験した作家もまた、日本にはおりません。

 彼の親日行為とされるものの中にはさまざまな事柄が含まれますが、中でも、日本が創氏改名を進めた時期に、一家揃って「香山」という姓を名乗って模範となったことや、日本語による時局的な作品の執筆、さらに、学徒兵志願の勧誘を行ったことがよく知られています。

 1943年に日本政府がいわゆる「学徒出陣」を始めたとき、朝鮮と台湾には徴兵制度が敷かれていなかったため、両地域の学生は志願という形で徴集するしかありませんでした。そのため朝鮮にいた学生のほとんどは志願させられたのですが、日本にいた留学生たちの間では志願者が増えなかったため、李光洙ら知識人が説得に動員されたのです。

 李光洙は勧誘団の一員として日本に行き、講演会を開き、また宿所に訪ねてくる学生たちとも真剣に話し込み、説得していたといわれます。

 当時、志願しなかった学生たちは、志願受付期間が終わった後に休学・退学を余儀なくされたり、除籍になったりし、あるいは遅れて志願に応じたものの軍隊でひどい扱いを受けたり、朝鮮に送還されることもあったそうです。李光洙はそれを知っていて、「自発的な態度で行けば待遇もよくなるし、将来受ける代償も大きくなるはずだ」と考えたのでした。

 李光洙がなぜ親日行為の先頭に立ったかという問題は、多くの側面から検討すべき問題で、ここで一言で解説することはできません。

 しかし、彼が後に『わが告白』という本に「徴用や徴兵は不幸なことだが、どうせ避けられないことなら、この不幸を私たちの利益になるように利用するのが上策である。徴用では生産技術を学び、徴兵では軍事訓練を学ぶのだ。わが民族の現在の状況では、この機会を除いて軍事訓練を受ける方法はない。産業訓練と軍事訓練を受けた同胞が多ければ多いほど、民族の実力は大きくなる」と書いた通りの現実的判断が働いたことは確かだったでしょう。

 李光洙は私利私欲に走るタイプの人ではなく、広く尊敬を集めていました。そしてこの時期、彼が非常に苦しんでいたことは、朝鮮人、日本人双方の文学者たちが記録しています。そうではあったのですが、1945年の解放後、彼の親日その行為は罪に問われ、李光洙は反民族行為処罰法により収監され、不起訴にはなったものの名誉は地に落ちた形となりました。

 振り返れば、『無情』を書いたときから、李光洙は危険と隣り合わせで日本に対するアクロバティックなゲリラ戦を仕掛けてきました。

 『無情』は日韓併合以後の京城や平壌が舞台でしたから、そこに日本人がいなければ物語が成り立たないはずの場面があり、主人公が日本語で日本人と会話しなければ展開しないはずのプロットがありました。しかし李光洙はあえて日本人の存在をぼかし、主人公たちの心理描写の方に力を入れ、結果として「日本人のいない朝鮮」を舞台に物語を描ききり、同時に検閲をかわしたのです。朝鮮人の書くものへの検閲が、日本人には想像もつかないほど厳しかった時代のことです。

 このようにしてレトリックを磨き、民族のために奮闘してきた李光洙には、何もかもわかっていて自分がやる以上、大義名分は立つという思いがあったのかもしれません。反民族行為処罰法のための調査委員会の尋問では「私は民族のために親日を行いました」とはっきり述べました。

 1950年に朝鮮戦争が勃発したとき、李光洙は北朝鮮軍に連行されました。その後彼がどうなったかについては諸説あり、1950年に慈江道の江界という土地で肺結核のため死亡したとも、北朝鮮軍が退却するときに江界付近で凍傷のため死亡したとも、朝鮮ではなく北京で病死したともいわれ、現在でもどれが事実なのか定かではありません。

 先回の連載で、北へ拉致された作家の業績が南では長い間封印されていたことを書きましたが、李光洙の場合はその業績があまりに大きいため、それが不可能だったといってよいと思います。

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 『朝鮮詩集』『朝鮮童謡集』(いずれも岩波文庫)などの名訳で知られる翻訳家・作家の金素雲(キム・ソウン)は、かつて李光洙が軍隊志願を勧める講演会のために来日したとき日本に住んでいました。そして、李光洙の講演を聞いた学生たちがその後、金素雲に会うために鎌倉までやってくることがよくあったと書いています。学生たちは、「あれは、尊敬する李光洙先生の本意なのだろうか」と確認したかったのです。

 それに対して金素雲は、「あの方々は、いわば種痘の役割を果しているのです。誤てる時代の熱病の中にある全民族に代って、腫れ物になり化膿した犠牲者たちなのです」と説明したそうです(「悪夢の季節」『天の涯に生くるとも』金素雲、講談社学術文庫)。

 このように、李光洙の親日行為を病のメタファーで表す言い方は他にもよく見られます。仏文学者の金鳳九(キム・ポング)も若いころに李光洙の講演会を実際に聞いた一人ですが、「李光洙の愛国と民族主義思想に露ほども偽善はなかった」と記し、それゆえに彼は「生涯、民族主義を病んでいた」と分析しているそうです。また、文芸評論家キム・ヒョンは、李光洙を「触れれば血の吹き出すような傷跡」と言い表しました。

 そして今、私が思うのは、その傷は癒えたのだろうか? ということです。

 近年になって、韓国の文学研究の中でも李光洙のとらえ方には変化が生まれているそうです。また、北朝鮮の文学史には李光洙の名前がありませんでしたが、1990年代以降は「ブルジョア啓蒙主義文学者」という説明つきで登場するようになったそうです。以前に比べれば、その名誉は徐々に回復されつつあるようです。しかし、彼の号を冠せた文学賞を設立する構想は国民からの猛反発を受けて挫折しましたし、「李光洙記念館」といったものも存在しません。

 やはりこの傷口はまだ、完全な傷跡になったわけではないということなのでしょう。しかしもう鮮血が吹き出すわけではない。現在の作家たちは、かつての歴史を咀嚼してその先を見据えていると思います。

 ですから、私がもう一方で思うのは、その傷口は日本文学史の傷ではないのか? という問いです。

 李光洙やその他の朝鮮の作家たちの苦悩は、日本の近現代史、文学史の一部であったはずです。高田馬場で近代文学を切り拓く小説を書いていた李光洙が、30数年後には、日本に魂を売ったという理由で戦火の中で拉致され、どこで、どのように死んだかもわからないという事実は、日本文学史にとっても重大な傷であるはずなのです。彼の最初の創作が、明治学院に在学中の18歳のときに書かれた「愛か」という日本語による短編小説だったことを考えても、そうです。

 私たちが韓国文学史をたどるとき、そこには必ず今まで見たことのなかった日本がパノラマとして見えてきます。そのとき、死角に入って見えていなかった傷口が現れることもあります。

 2019年に私は、ハン・ガンの『回復する人間』(白水社)という短編集を翻訳しました。この本はタイトルの通り、傷とその回復というテーマに沿って編まれたものです。それは身体的な傷、精神的な傷の双方を指しますが、いずれにせよ、傷が傷である時間をそのまま耐えてこそ回復があるのだ、傷をなかったことにしようとしたり、覆い隠したりすればかえって回復は歪むのだということが、くり返し訴えられているようでした。

 植民地を持つということは、宗主国の人間にも、複雑な傷を与えたはずなのです。どんな傷にせよ、ハン・ガンが示唆するように、傷が傷であることを認めることから見えてくるものがあるはずです。

 李光洙という巨人を見つめることは、日本が明治維新以降、どのような近代を目指し、また、そのことが誰にどんな不利益をもたらしたかという巨視的な視点を与えてくれます。それはまた、漱石という巨人を新たに読み直すための端緒ももたらしてくれます。

(本連載はこれで終了とし、加筆の上単行本化の予定です)

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