水道橋博士の「美人なら読書しなくてもいい」が誉めているつもりでも女性蔑視になる理由

文=雪代すみれ
【この記事のキーワード】
水道橋博士の「美人なら読書しなくてもいい」が誉めているつもりでも女性蔑視になる理由の画像1

水道橋博士オフィシャルサイトより

 お笑いコンビ・浅草キッドの水道橋博士氏が、女性アイドルグループ「Juice=Juice」の金澤朋子氏に関し<美人であり、あんな歌声を持っていれば読書などしなくても良いのに>とツイートし、物議を醸している。

 今月17日、水道橋博士氏は下記のツイートを投稿。

<事前資料で金澤朋子さんの読書リストをチェックして、こんなに読書好きなのかと感心する。美人であり、あんな歌声を持っていれば読書などしなくても良いのに。でも読書は鏡であり扉でもあるわけだから……。もっともっと飛翔して欲しいですね>

 このツイートには「なぜ美人なら読書する必要がないのか」「誉めてるつもりでも失礼」など批判が殺到した。

 あるアカウントからツイートの意味を問われ、水道橋博士氏は18日、<ゴメンナサイ。リア充の可能性のある若者には青春と人生を楽しんで下さいと思ってしまうだけです。でもボクは読書は大好きなので、そういう性質の人とは文を通して通じあえる。そのメッセージです>と説明。さらに同日、17日の投稿について<もしこのツイが誤解され彼女にご迷惑をお掛けしていたらお詫びしますね>と謝罪した。

 しかし、「読書では青春と人生を楽しめないの?」「女性蔑視の意図はなくても、発言自体がアウト」「批判されているのは金澤さんではなく、貴方の金澤さんに対する評価と女性を容姿でジャッジしたこと」「なぜ批判されたか理解できていないのでは」など説明と謝罪が火に油を注ぐ形に。

 2月25日放送の『グッとラック!』(TBS系)では、この件について水道橋博士氏に取材。

 ツイートの意図を尋ねられた水道橋博士氏は、<金澤さんに関しては才色兼備ですよ 歌って踊れてしかも魅力的でアクティブで 青春を充実させていて仕事自体もストイックにできている方でさらに読書をしようとしているという意欲も含めて称賛・エールしかないです><「容姿が良くないから読書をすべき」みたいな事を思っているはずないんですよね>と、女性蔑視の意図はなかったことを改めて説明した。

 一方で今回の投稿は問題だったと認識しており、<無意識下に自分の差別的な構造があるって指摘に対して「無い」とは言い切れないですよね><社会の中や場所を限定としたものとか、お金を払った人に対する芸とテレビは全然違う事だしSNSも違いますよね。だからそこはちゃんと場所をわきまえないといけないとは思いますね>と語った。

 また、読書好きの妻や娘からは<私たちは不美人?><パパのツイート見たらそういう風に取られるよ>と指摘を受け、<言葉の使い方が良くないですよね>と反省の意を述べた。

 しかし、お笑いについては<差別そのものが「笑い=差別」もあるんで、そういう差別構造自体を見せるっていうのが落語を踏まえてもそうだし、漫才もそうだし、それはもう根本的な本質にあるんで、そこを否定するのはやっぱり「言葉狩り」みたいになると思います>とお笑いには差別的表現が伴うこともあるとの考えのようだ。

伊沢拓司氏「“差別”とは何か”の定義が大切」

 スタジオでも水道橋博士氏のツイートに関して議論が行われた。MCの立川志らく氏は「投稿自体は良くなかった」と述べたものの、水道橋博士氏は国の代表や政治家ではなく芸人であり、<みなさんいったい芸人に何を求めているんだってところですよね>とコメント。一方で「お金を払って見に来ている場ならいいけれども公共の場ではだめ」と場所への配慮は必要との意見を述べた。

 メインコメンテーターの田村淳氏も「場所だと思います」と志らく氏の意見に賛同。また、森喜朗氏の女性蔑視発言を批判し、水道橋博士氏を擁護することは矛盾していないかとの指摘には「(森氏と水道橋博士氏では)立場が違う。一緒にして考えるのは違う」とコメントした。

 コメンテーターでヴァイオリニストの木嶋真優氏は、水道橋博士氏のツイートについては「何とも思わなかった」と自身の感想を述べたものの、「読書などしなくてもいいのに」との言葉には<読書は自分のステータスを上げたいがために読むのではなくて、勉強したいとか興味があるとかただ単に読書が好きという趣味の一つでもあると思うので>と読書している人がどう思うのだろうかと疑問を呈した。

 一方、コメンテーターで東大卒クイズ王の伊沢拓司氏は「立場論はあっても発言の本質を見なくてはいけない」、SNSという公共性の高い場所に書いているならば、目にして傷つけられる人がいるため「無意識だから許されるわけではない」と言及。

 また伊沢氏は「この件は女性蔑視というよりルッキズムの問題」と指摘。さらに一つ一つの出来事の良し悪しの判断以前に「差別とは何か」という定義が大切と述べ、大阪府のサイトより「差別」の定義を紹介した。以下はその差別の定義だ。

<(1)個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、(2)合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、(3)異なった(不利益な)取扱いをすること>

 コメンテーターの髙橋知典弁護士は<差別は全ての人が加害者であり被害者だと思っている><どこかで全ての人間がそうであるという前提で批判した方がいいし、批判を受けるべきだと思っています。私自身も気を付けなきゃいけない>と差別に対する自省の必要性を言及。

 さらに「クローズドな場所なら問題ない」という意見には反対し、<できればやめたほうがいいと思いますし、そうしない表現を見つけられるよう努力する必要が今の時代はあるのではないかなと思います>と語った。

 それに対し志らく氏は「それをお笑い芸人や落語家に求められたら何もできなくなる」と反論した。

 この反論に伊沢氏は<線引きは難しいですけれど、極論に行き過ぎないことも大事>と指摘。公共性や関係性については厳密に考えるべきではあるものの、「それ(公共性の高い場所では不適切とされる発言)が守られるべきクローズドな場はあるべきで、個人との関係性が上手く築けているのであれば、可能だと思う」と説明した。なお、公共性については批判している個人にも求められることで、番組で紹介した批判リプライの一つである「自民党員かよ」などといったものも押し付けになっていると指摘した。

 伊沢氏が「極論に行きすぎないことも大事」と説明する中、志らく氏は「綾小路きみまろ氏の高齢女性を馬鹿にするネタにクレームがついたらできなくなる」「『男はつらいよ』も“女の方がつらい”と言われたら放送できない」などと極端な例を羅列。

 これに対し髙橋弁護士は「それ自体が歴史的な資料である」と過去の作品の時代背景まで否定されるものではないと述べたが、志らく氏は、手塚治虫氏作『ジャングル大帝』が黒人描写に注釈をつけないと出版できなくなっていることを例に挙げ、その時代の人権感覚に合わなくなった作品が“普通に”世に出せなくなっていると主張。「古典落語もいずれそうなってしまうのでは」と危惧しているようだ。

 国山ハセンアナも<過去の作品は過去の作品としてできますけど、これから先そういうものはできなくなりますよね>と過去が否定されるものではないとフォローしたものの、志らく氏は<過去の作品すらできなくなってしまう可能性がある>と拒否し続けた。

1 2

「水道橋博士の「美人なら読書しなくてもいい」が誉めているつもりでも女性蔑視になる理由」のページです。などの最新ニュースは現代を思案するWezzy(ウェジー)で。