「ファンの集合知が市民社会を成熟させる」は楽観的か
――本書に対する批判として考えられるのが、ジェンキンズがいうような、ポップカルチャーやデジタルテクノロジーを通じてみんなが繋がり、それによって集合的知性や連帯が生まれ、健全で成熟した市民社会を作っていく……という理論はいささか楽観的ではないかというものだと思うんです。皆さんならどのように再反論されますか?
渡部 うーん、なにから言うべきか悩むくらいたくさんあるんですが……まずジェンキンズが書いたものを読んでいくと、別にいい部分だけを選択的に取り上げているわけじゃないんです。ファンの積極的な振る舞いが結果的に悪い結果を引き起こすこともあるという指摘もしているんですね。ファンの参加が常に良いものだとはとらえていない。
北村 実はこの本を訳しているとき、『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』をみたのですが、それはそれは酷いもので、ショックを受けたんです。というのも、この作品はファンダムを意識したら、変なファンの意見に引っ張られて悪いものになったという感じがあったんです。いままでファンがコンテンツにおよぼすクリエイティブな力を信じて研究してきたのに、こんなことになるなんて……と自分の人生が崩れ落ちるような気持ちになりました。
一同 (笑)
渡部 確かに楽天的ではあるんですが、同時にリアリズムだとも思うんです。トランプ現象にせよ、排外主義にせよ、それをある意味ファンとしてサポートする市民がいるわけじゃないですか。彼らがトランプや排外主義を支持していることが問題だと捉え、これを解決しなければならないとしたら、彼らがそういう政治的判断に至るファン共同体の活動の現場をちゃんと知る必要がある。その上で、じゃあどうすればその現場に入っていって、どうやって問題を解決できるかを考える。結局それは、所得の再分配が重要だとか、労働組合を維持することが大事だとか、政治プロセスや選挙についての知識を学ばないといけないといった、本当に基本的なところに行きつく。なので、これって理想でもあり、リアリズムでもあると思うんです。
北村 たまに「新しいメディアを通じて繋がった人々が、これまでのものを破壊していく」みたいなことが言われます。でもそれって今に始まった話じゃないんですよね。マルティン・ルターが「九十五カ条の論題」を出さなかったらドイツ農民戦争(ルターの議論が引き金となった宗教改革を支持する人々が起こした大規模な農民反乱)は起きていませんから。印刷技術なんてなければよかった、本を燃やそう、といくら主張したって、みんな印刷を続けたわけじゃないですか。だからもうそれはそういうもので、良いところも悪いところも受け入れるしかないと思うんです。
阿部 ジェンキンズ自身がしばしば楽観的だと批判されがちですが、ジェンキンズが授業で自身の学問の姿勢について話していたことがあったんですね。彼にとって学問にはだいたい4つの段階がある。一つ目が一般に言う「分析」や「記述」、二つ目が「批評」や「批判」、三つ目が「代替案」の提示、そして四つ目が社会を変革するための「介入」だ、と。「自分は介入主義者である」……みたいなことをおっしゃってました。
ジェンキンズは、彼が言うところの二つ目にいる批判的な学者からは「メディアの恐ろしさに対して楽観的過ぎる」と言われがちです。しかしジェンキンズは、学問とは二つ目の段階に留まるのではなくて、三つ目、四つ目の段階に進むことが重要なんだって言うんですね。そして三つ目、四つ目の段階を渡部さんがおっしゃったようにリアリスティックなものにするためには、相手の事情、例えば産業界がどのようなものなのかとかをちゃんと理解しないといけない。メディアを上から一刀両断するのではなくて、なぜこういう行動をとるのか、この人はどういうことを考えているのかを知る必要があるし、そのためにネットワークを広げていく必要があるわけです。
だからこそ、いろんな人とご飯を食べたり、コミュニティに入ったりすることが大事で、それが世の中を変えていくのに重要なんだってことをジェンキンズは繰り返し話していました。そういう学問に対する姿勢の違いが、「楽観的」という批判に出ているのかなあと思います。