「父親から性的な虐待を受けていました」と伝えてくれたあなたへ

文=みたらし加奈
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GettyImagesより

——LGBTQ+、フェミニズム、家族・友人・同僚との人間関係etc.…悩める若者たちの心にSNSを通して寄り添う臨床心理士が伝えたい、こころの話。

 

※今回の文章には性暴力の表現が含まれているので、フラッシュバックをしてしまう可能性がある方はお控えください。読み進めている中でご気分が悪くなった方は、無理をせずにブラウザを閉じてください。

 

 以前、連載でお答えするためのお悩み相談を募集した際に、1通のメッセージが私の目に止まりました。かなり詳細に記載をしてくださっているので、一部を省略しています。

 

「私は父親から、性的な虐待を受けていました。だけどずっと、自分のことを被害者だと思えず、自分の体に、自分のすべてに嫌悪感を持っています。その理由は、自分から父に体を差し出していたからです。父はお酒を飲んで怒鳴り散らしたり、母や兄や私に暴力を振るう人で、それが怖くて、なんとかしたくて、家の中がピリピリしていると、父の部屋に行きズボンと下着を脱いで父の膝に乗っていました。でもこれは2人だけの秘密にしなければいけないこともわかっていて。私と父は加害者と被害者ではなく、共犯者でした。

 大人になった今、人間関係をうまく築けず、もちろん恋愛なんてしたこともなく、孤独感と自分への嫌悪感でいつも苦しくて、なんであの時あんなことをしてしまったんだろうとか、なんで生まれてきたんだろうとか、消えてしまいたいとか、そんなことばかり毎日考えています。たとえ他人から『あなたは悪くない』って言葉をかけられても、私は一生自分を許すことはできません。

 10代のときはずっと『20歳になったら死のう』と思っていましたが、ズルズルと25歳まで生きてしまいました。この先自分がどうなっていくのか、どうしたら少しでも苦しくなくなるのか、教えてほしいです」

 

 まずはあなたが勇気を出してこの文章を送ってくださったことに敬意を表させてください。本当にありがとうございます。きっと吐き出すことにも相当な痛みが伴っていると思います。

 ずっと苦しくて、心が痛くて仕方なくて、生きている意味も自分の存在すらもわからなくなって、そんな想いをあなたがひとりで抱えていたことに胸が締め付けられます。

 この文章があなたに届くかはわかりません。「私の答えが救いになれば」と思うことすらおこがましいと感じています。だからこそ、「治療者」である臨床心理士としての立場ではなく、あなたと同じ“サバイバー”として「あなたの味方であること」を表明させてください。そしてあなたが25歳まで生きてくれて、こうやって私と繋がってくれたことに感謝の想いを伝えさせてください。

 おわかりの通り、あなたの受けてきた性的な行為はすべて「虐待」であり、非常に深刻な「性暴力」です。しかし性暴力の難しいところは、被害を受けた側がそれを「暴力」として認識しきれないところだと感じています。

 押し付けてしまうことはわかっていながらも、これだけは断言させてください。その行為は決して、あなたが「選んだ」ことではありません。「選ばざるを得なかった状況に追い込まれた」と考えて欲しいなと感じています。そこに力関係が生まれている以上、性暴力被害が「共犯」になることはあり得ないのです。

 子どもが親の機嫌を取ろうとしてしまったり、喜ばせようとしたりしてしまうのは自然な行動です。しかし数ある選択肢の中で、あなたが「服を脱いで上に座ること」を選択させられてしまったのは、紛れもなく加害者に責任があります。なぜなら、子どもには「性行為がしたいかどうか判断できる能力」が備わっていないからです。

 例えば子どもが「自動車を運転したい」と言って、実際に大人がそれを許容したらどう感じるでしょうか? 真っ当な大人は子どもにブレーキやアクセルを踏ませ、ハンドルを握らせるでしょうか?

 答えはNOです。子どもと大人がいる時は、少なくとも責任は「大人側」に既存しています。それがあたかも「子どもの意思」のように見えたとしても、責任は大人側にあるんです。性行為とは時に、自分の臓器を相手に委ねる行為でもあり、日本の刑法上の性的同意年齢が13歳であることも私には信じがたい話です。

私の体は「肉」じゃない

 連載や著書の中でも触れてきましたが、私が性暴力を受けたのは小学生のときでした。加害者は、兄のように慕っていた近所に住む男性で、「部屋に来て」と言われるのが“いつもの合図”でした。私はその先で何が起こるのかをわかっていながらもその部屋に向かっていたことを記憶しています。

 暴力を受けてから、少なくとも私は自分の体を「肉」としてしか認識できなくなりました。単なる「肉」として認識したことで、すべてが壊れてしまうような気がしていました。力ずくで誰かの思うままに扱われたり、自分に意思がないように見せかけたりすることのほうが楽でした。「暴力を受けた」という認識を持つことで、「自分が汚されてしまった」とは思いたくなかった。加害行為を「加害」として受け入れなければ、その問題から解き放たれると信じていたんです。そして、実はこの感覚に共感してくれるサバイバーは少なくありません。

 でも本当は「肉」なんかじゃない、私には私の人生があって、意思があって、血が通っているひとりの人間です。「理不尽に扱われてきたからこそ、私は私を大切にする義務がある」と気づいてから、重い腰を上げてカウンセリングに通い始めました。しかし、実際に性暴力の話を明確に伝えられたのは、カウンセリングを受け始めてから2年目のことです。その日の帰りは「なんで言ってしまったんだろう」と後悔しましたが、その後もゆっくりゆっくりセッションを続けて、4年目の今では「話せてよかった」と心の底から感じています。時には「本当に効果あるの?」と疑心暗鬼になることもありましたが、効果は徐々に現れています。

 「あなたは悪くない」という言葉は、その場ではなんの効力もないように感じられますが、年月と共に心に定着していくものでした。だから、改めてここでも言わせてください。

 あなたは悪くありません。あなたが自分を責める必要もありません。こうしてあなたがメッセージを送ってくれたのも、あなたが自分を「大切にしたい」と思えた大きな1歩なのかもしれません。

 「性暴力は魂の殺人」という言葉がありますが、私はこの文言を使わないようにしています。加害者が被害者に背負わせる痛みは想像を絶するものですが、「殺されてたまるものか」とも思うのです。

 性暴力の被害者であっても、過去の自分を労り、傷を癒すことはできます。いつか自分を許せる日だって、幸せを感じながら自分の人生を歩める日だってきます。なんの疑いを抱くことなく笑うことだってできるようになります。そして生きてさえいれば、「本当は自分のことを愛しているんだ」とわかるタイミングもあります。私にとっては「カウンセリング」がそれを気づかせてくれたものでした。

 たまに過去を思い出す日も、それによって暗澹たる気持ちになる日だってないわけではありません。しかし確実に「その時間」は減ってきましたし、何よりも「自分は悪くない」と思えたことが救いになっています。ただこれはあくまで私の成功体験でしかないので、あなたにはあなたのタイミングがあるのかもしれません。

 寒く厳しい冬が明けて、もうすぐ春が来ますね。今、あなたは何を感じているでしょう。晴れた日にふり注ぐ太陽の光は心地の良いものです。雨の日には、まだまだ冷たい水滴が頬を伝います。毎日とは「繰り返し」のように見えて、実はすべてが新しいもの。あなたがこれから得るであろう新しい出会いの中には、あなたが「救われる」ものだって含まれているかもしれません。

 そして例えあなたが自分のことを否定したとしても、私は肯定したい。あなたの身体はこれからもずっとあなただけのもので、それを侵害するような行為に心を許す必要はありません。あなたの生きてきた25年間も、あなただけのものです。この文章があなたにとって「ヒント」となれるかはわかりませんが、少しでも期待に添えていたら嬉しく思います。

 美しいミモザの花と共に、あなたへの連帯を添えて。

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