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フジテレビの『痛快TV スカッとジャパン』という番組が気持ち悪い。“身の回りにいる身勝手な人たちを、ナイスアイデアや機転のきいたとんち、あるいは手の込んだ頭脳作戦で撃退した、本当にあった「スカッとする話」をショートドラマ化して紹介する”といった内容で、2014年から続く人気バラエティ番組である。
例えば「イヤホンから音漏れしている人」「混んでいるレストランで長居する人」などに“迷惑”をかけられている投稿者のもとに、突然どこかからか第三者が現れ、“スカッとする”セリフを吐き、迷惑行為を行っていた者を黙らせる。それを見て、ほぼ問題に関与していない投稿者やその周囲の人々、そしてスタジオのタレントらが「スカッと」するというエピソードなどが続く。
3月8日の放送分では、「バス扉の前で動かない迷惑男」に対して、たまたまバスに乗り合わせた男の上司が「君は周りを見ることができないのか。そんな感じだから昨日も会社であんな大きなミスをするんだ」と言い放ち、それを見ていた全くの第三者である投稿者が「男性がとても恥ずかしそうにしていて、なんだかスカッとしました」とほくそ笑む。
バス扉の前で動かないのは確かに迷惑行為かもしれないが、その男がなぜそこに立っているのかの事情もわからないまま、それと仕事のミスをくっつけて頭ごなしに非難することの意味がわからなかった。
さらに投稿者含め、全く無関係のバスの乗客やスタジオの芸能人らが、その男が公共の場で罵倒されていることに対して「スカッと」している様子が、私には恐ろしくてたまらない。「バス扉の前で動かない迷惑男」は、迷惑かつ仕事のできない奴だから全員でよってたかって非難してもよい対象である――というような描き方が気になった。
このほかにも毎回(私にとっては)謎エピソードが続き、見ていたらクタクタになってしまうので見ないようにしているのだけど、たまに怖いもの見たさで見てしまう。
なぜこの番組をこんなに気持ち悪く感じてしまうのか、どうして人気があるのか――その理由が知りたかった。
「全員で」よく知らない人を吊るし上げる構造の気持ち悪さ
もちろん上記のようなエピソードだけではなく、投稿者自身の手によって迷惑者へ制裁を下すものや、それが関係のある当事者間の問題である場合もあり、それらは理解できる。
しかし、この番組内のエピソードの多くを占めるのは、“全くの第三者が全くの第三者に対して制裁を下し、そしてそれを第三者である私たちが見て「スカッと」する”という構造だ。そこが気持ち悪さを感じさせる。
ほとんどのエピソードは、「その迷惑行為に対しては投稿者だけではなく、周りの人も迷惑しているんですよ」という描き方で、さらにそれを肯定するようにスタジオにいる芸能人らがそれぞれのエピソードのスカッと度合いを「スカッと」ボタンを押して表明する。私が見る限り結構な確率でスタジオのほぼ全員がスカッとしている。異論を唱えるものはほとんどいない。
全員が、“迷惑な人”から人々を救った“ヒーロー”を賞賛する。悪は絶対的に悪で、正義は絶対的に正義なのだ。確かにVTRで迷惑行為をしている人は迷惑なのだろうけれど、その様子はもはや、ほとんどいじめのようだと私は思った。グロテスクだった。
現代の社会の規範や、暗黙のルールから外れた行動をすると、個人的な事情や理由など関係なく、「人に迷惑をかけているから」という理由だけで罰せられ排除される。
ここで迷惑をかけられている“人”とは、一体誰なんだろうか。
ルールを破る迷惑な人が許せない私たち
「人に迷惑をかけるような人間にはなるな」
こう言われて育たなかった人はいないのではないかと思われるくらい、この言葉は私たちの精神に深く深く染み込んでいる。
「人に何か言われたら嫌だから、しない」
「こんなことをしたら人から変だと思われる」
「誰かの迷惑になるかもしれない」
などと、私たちは常に、見えない“人”の目線に怯えている。
その“人”に迷惑をかけないよう、たくさんのルールやマナーを守り続けるプレッシャーの中で日々生きているからこそ、ルール破りの“迷惑な”人間は目障りで、それを成敗してくれる『痛快TV スカッとジャパン』のような番組が人気なのかもしれない。
しかし一度立ち止まって考えてみたい。
この番組のように、迷惑な人が有無をいわさず裁かれるような世界に生きたいだろうか。自分だって、いつか何らかの理由で“迷惑をかける側”に回ってしまうかもしれない。または、自分がよかれと思ってしたことが、誰かにとっては迷惑なのかもしれない。
こんな曖昧な物差しで、人のことを判断するのは非常に危険だという気がする。
バスでチキン食べながら大声で電話している人
この件について、イギリスの友人に話をした。その際「人に迷惑をかけるな」という概念についての説明に、なかなかの時間を要した。
彼は、「人に迷惑をかけるな」という概念がなぜそんなに私たちの社会で大きな意味を持っているのか、“人”とは一体どこの誰のことを指しているのか、意味がわからないようであった。
このやり取りを通して思い出したのは、初めてイギリスでかの有名な赤いダブルデッカーのバスに乗った時のことだった。
そこで私は、度肝を抜かれた。伝統ある美しいバスの車内には、ルールなど存在しなかったからだ。そこは、電話もダンスも化粧も飲食も楽器の演奏もなんでもありの世界であった。最初こそ閉口していたが、しばらくするうちにそれは日常となっていった。
ある日いつものようにバスに乗ると、隣の席の男がひたすらフライドチキンをむしゃむしゃ食べながらスピーカーモードで彼女とラブラブ電話をしていた。そこで、私はフト気付いた。
今までこんな人が隣にしたらイライラしてどうしようもなかったのに、私は今、全然イライラしていない。長年「迷惑だ」と思っていたこれらの行為は、実は私にとって「迷惑」でもなんでもなかったのかもしれない。日本ではそれらが「迷惑行為」だと決まっており、守るべきルールとして社会で共有されているから、自分もみんなと同じようにそれが迷惑だと思い込むようになっていったのではないか。
それらが迷惑行為だと定義されていない国の中では、それを迷惑と感じるかどうかを決めるのは、私自身だった。
そして私は、「バスや電車の中で誰が何をしていようが、別にどうでもいいと思っている」自分に気づいて、驚いた。
それはなにか長年の呪縛から逃れられたような、不思議な感覚だった。
(誤解のないように申し上げると、私は決してこういった行為を推奨しているわけではなく、それを迷惑だと感じる人ももちろんいるだろうし人それぞれだが、私にとってこれらは、迷惑行為に当たらなかったということである)。
私も多くの人と同じように、公共交通機関で化粧をしたり何かを食べたり電話をしたりすることはダメだと言われて育ってきた。明確になぜダメなのかは分からないが、ダメなものはダメなのであった。
なので、それらをやっている人を見ると、嫌な気持ちになった。なぜなら、それはやってはならないことだと決まっており、私はルールを守っているから。
電車の中でそっと口紅を塗っている人をじっと見つめながら、「迷惑だな」と感じた。しかし、それはなぜ私にとって「迷惑」なのか。その理由を、私は持っていなかった。そう感じることが「当たり前」だと思っていた。
2メートル先で誰かが口紅を塗ることで自分が被る迷惑とは、一体どんな迷惑なのだろうか。私は自分が直接迷惑を被っていたから不快だったわけではなく、彼らがルールを破っていたから不快だったのである。
「人に迷惑をかけるな=私と同じようにお前もルールを守れ」と、ルールを破るものを目ざとく見つけては、わざわざ憤っていた。
見えない“人”の存在が私たちを窒息させる
実は世の中の大多数の人が、「人に迷惑をかけない」ためになんとなく守っているだけで、それがなくなっても誰も迷惑しないルールというものも、あるかもしれない。
学校のブラック校則や、職場での茶髪・ピアス禁止、銭湯でのタトゥー禁止、就活学生への異様なまでに細かい服装の指定、ビジネスメールのマナーや、冠婚葬祭での様々なしきたりなど、私たちの周りには「こうすべき」だ、というルールがたくさんある。
「こうしないと人におかしいと思われる」からそれを守る。みんなで手を取り合って、誰もそのルールを破らないように静かに監視しあっている。
しかし、そもそもそのルールは、一体誰のためにあるのだろうか。
ルールやマナーは「人に迷惑をかけない」ためにあるのではなく、私たち全員がよりしあわせに生きるために、作られたものだろう。もしみんなが、ルールを守るためにルールを守っているとしたら、もはやそれが一体何のため、そして誰のためのルールなのか不明だ。まさしく「誰得」状態である。
もちろん、「人のものを盗んではいけない」「暴力はいけない」「相手を脅して従わせてはいけない」といった法律をはじめ、確固たる理由があり作られた守るべきルールは存在する。一方で、時代と共にただの形式と化してしまい本来の意味を失っているルールもたくさんあるのではないだろうか。
あまりにも増えすぎたさまざまなルールが、プレッシャーと同調圧力を産み、なんらかの事情でそこから抜け出てしまった人を「迷惑なやつだ」と有無を言わさず袋叩きにすることに繋がってしまう。なぜそれがダメなのか? を考えずに、ただ全員で思考停止に陥っている。「みんなの輪から逸脱しないように気をつけよう」と私たちはどんどん萎縮していく。全員で協力して、お互いに息が詰まるような生きづらい社会を作り出していってしまっている。
「じゃあ、こんな堅苦しいルールを守ることはやめよう」と1人だけやめることができないのが、この問題の難しいところである。誰も「ルール違反者」にはなりたくないからである。とりあえずルールを守っておいた方が無難、だからルールを守っているという人が私を含めひょっとしたら大勢いるのではないかと思われる。
しかし、そうやって自分の意思からではなく、誰かの意思によって強いられたルールを守り続けるのには、限界がある。
血の通ったルールは私たちを自由にする
誰か見知らぬ人の“迷惑”な言動や行動にイラッとしたとき、それは私自身が本当にそう思っているのか、または社会からの刷り込みによってそう思わされているのだろうか、と考える。
「常識的におかしい」「普通はこうする」「人の迷惑を考えろ」
こういった言葉が浮かんできた時、それは自分自身の内側から湧き上がってきたものではないのかもしれない。
どこかの誰かもわからない“人”に迷惑をかけないために、必死に生きてきた私たちの涙ぐましい努力が作り上げた様々なルールが、いま私たち自身の首を絞めている。
もし私たちそれぞれが、それらのルールを鵜呑みにすることをやめて、自らの頭でそれが必要なものなのか否かを考えることを始めたら、「人に迷惑をかけるな」という言葉は無くなっていくのではないかと考える。
代わりに――得体の知れない曖昧な“人”に迷惑がられることへの恐れからではなく、実体のある“誰か”のためを思って作られた血の通ったルールが生まれる。
そうやって作られたルールは、私たちを縛るためではなく、もっと自由になるためのものになる。