“資本主義”を考え直さなければ、社会にまん延する“生きづらさ”はなくならない…いま改めてマルクスを学ぶ意義

文=白井聡
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Getty Imagesより

●「セカイ」を『資本論』から読み解く(第1回)

 読者の皆さん、こんにちは。今回から《「セカイ」を『資本論』から読み解く》という題で連載を始めることになりました。どうぞよろしくお願いします。

 さて、この連載タイトルに込めた思いは何か?

 『資本論』とは、かの有名なカール・マルクスの『資本論』(1867年に第一部刊行)のことです。よくある思い込みなのですが、マルクスは共産主義・社会主義の思想家(それはその通りなのですが)で、『資本論』は著者の理想とする共産主義社会の青写真を与えたものだと見なされています。それは全く違います。

 『資本論』は、読んで字のごとく、「資本」を論じたもので、共産主義社会はどんな社会であるべきかなどという話はほとんど出てきません。マルクスが生涯を賭けた『資本論』を書くという仕事は、資本とは何か、資本主義経済とは何か、そして資本主義経済に基づく社会(つまりは資本主義社会)とは何か、その本質を描き尽くすことでした。

 『資本論』は資本主義に対する批判的分析の古典中の古典として世界中で読み継がれてきました。とはいえ、もう150年以上も前に書かれた本が、現代の分析に通用するのかという疑問も当然出てくるでしょう。もちろん、マルクスの見た資本主義社会の現実と現在の資本主義社会のそれとは異なる部分もあります。しかし、マルクスの分析が何か本質をつかんだものだったとすれば(実際そうだと私は思うのですが)、それは今日の資本主義社会を分析する際にも、大いに有効であるはずです。

 「マルクスはもう古いのかどうか」という問題について角度を変えて少し考えてみましょう。「マルクスなんか時代遅れだ」と断言する人たちの多くが「神の見えざる手」という観念を信奉しています。彼らは次のような考えを持っています。

「各人が自分の利益を自由に追求する市場に任せることこそ最も適切な経済の在り方であって、国家による経済統制を事とする社会主義は無効であることは、ソ連崩壊やわずかに残った北朝鮮やキューバのような社会主義体制の経済停滞からも明らかだ。市場では各人が自分の利害のみに従って行動するわけだが、あたかも《見えざる手》によって導かれるかのように、自分勝手な行動が最善の秩序をつくり出す」

 こうした主張にはいくつもの難点があります。まず、ソ連型社会主義と言われる計画経済(指令経済とも言います)という考えは、マルクスの考え出したものではありません。マルクスが、資本主義経済体制の無秩序性に対して何らかの統制が必要だと考えていたことは確かですが、その具体的手段を国家の巨大官庁による経済秩序の完全な計画化に見定めていたわけではありません。

 ソ連邦はマルクス主義を国是とする国でしたが、その「マルクス主義」は、マルクスの思想に対する解釈のひとつであったにすぎないのです。したがって、ソ連の失敗を以って「マルクスはもう終わった」とする見方は、きわめて一面的です。繰り返せば、マルクスが分析したのは、資本主義社会であって、共産主義社会ではないのです。

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