変わり続ける世界のエンタメ。理不尽に声を上げる変化を受け入れ、自分も進化を続けること

文=今 祥枝
【この記事のキーワード】
変わり続ける世界のエンタメ。理不尽に声を上げる変化を受け入れ、自分も進化を続けることの画像1

(写真はイメージです)

(※本稿の初出は『yomyom vol.67』(新潮社)です)

世界の変化に合わせた、自分の変化の必要性について考える。

 この連載を書かせていただくようになってから丸2年。海外の映像作品、特にアメリカではピークTV時代とも呼ばれる2010年代以降のTVの黄金時代の作品から、意識高くなくとも読み取れてしまう、あるいは考えさせられるあれやこれやについて書いてきた。

 第1回は、ブロードウェイでアップデートされた内容が話題だったリバイバルの舞台『マイ・フェア・レディ』を通じて、オードリー・ヘップバーン主演の映画版に子供のころ感じた違和感を再認識したことを書いた。昔の作品を今の価値観で断罪することには反対だが、自分が抱いていた違和感は、時代を跨いで多くの人が共有しているということを知ることとなった。

 象徴的だったのは不朽の名作とされてきた『風と共に去りぬ』である。20年5月、アメリカでワーナー・メディアと「ゲーム・オブ・スローンズ」などで有名なケーブルテレビ局HBOが組んでローンチした動画配信サービス、HBO Maxは、自社の看板作品としてトップに本作を掲げた。ところが、アメリカでは折しもブラック・ライブズ・マターの抗議運動がすさまじい広がりを見せていた。そんな中で声をあげたのが、奴隷となった自由黒人を描いた『それでも夜は明ける』の脚本で知られるジョン・リドリー。『風と共に去りぬ』について「奴隷制の残酷さを無視した作品」であり、南北戦争の南部連合を美化していると痛烈に批判したのだ。

 HBO Maxは即座に配信を停止。冒頭に映画専門家による解説を入れることで、再編集など手を加えることは一切せずに配信を再開した。

 こうした反応はやりすぎだろうか? 私はそうは思わない。何も知らずにやってしまったというのではなく、『風と共に去りぬ』のように確信犯的に黒人やマイノリティを貶める表現(マジョリティである観客=白人が好む表現)を選択した作品は少なくないからだ。であれば、現代の価値観でそうした過去の作品を闇に葬り去るよりも、注意書きとともに配信することで、この作品の何が問題なのかという理解を視聴者に促すことができる。それは有意義な行為だと思う。

 ハリウッドを中心に仕事をしてきた私にとっては、17年にハリウッドから世界へと広がった#MeToo以降、加速度的に社会全体の変化が進んだように感じられる。自分の中でも意識の変化はあったが、社会のそれの方がずっと早い。毎日、考え続けてもまた次の日には新しい価値観を知る、と言ったら、大袈裟だろうか。でも現実として、そんな感じの日々が続いている。

女性をめぐる問題

 当連載では女性たちを取り巻く問題を描いた作品を多く取り上げてきた。第1回では、女性が子供を産む機械とみなされるディストピア「ハンドメイズ・テイル/侍女の物語」について書いた。これは私にとって衝撃的な作品だった。女性が物として扱われ、沈黙を強いられて生きる姿は、ディストピアではなく現在進行形の物語として受け取れたからだ。まず感じたのは怒り。そこからピークTV時代の多くの秀作に触れることで、ジェンダーに関する理解や考えを深めていった。問題の存在を認識することから始まって、おかしいと思うことに声をあげること、ときに女性同士が連帯することが必要だと痛感した。

 同時に、なぜ女性が声をあげにくく、連帯が困難であるかについて考えさせられた。

 第7回で紹介した、朝の情報番組の舞台裏で起きていたセクハラ・パワハラを描いた「ザ・モーニングショー」では、1人を槍玉に挙げるのではなく、関係者全員の責任を問い直すことによって、社会や組織の構造的な問題を提起することに果敢に挑戦していた。セクハラ・パワハラの張本人であるメインキャスターの男性が、番組内で#MeToo問題を怒りを持って報道し、ハービー・ワインスティーンのようなモンスターと自分は全然違うと考えている姿に問題の根深さを感じた。このメインキャスターの男性と似た思考回路の男性の主張は、実世界でも多く目にしたものだ。今はさすがに旗色が悪いと思って胸に仕舞い込んでいる人も、少なくない気がする。

 なぜこうした人間が重要な立場に居座り続けることができたのか。そして組織的な隠蔽行為に対して、なぜ女性が声をあげられずにいるのか。このような構図は、本稿執筆時に、オリンピック組織委員会の森喜朗会長が女性差別発言で辞任した一連の茶番劇にも通じるだろう。個人を糾弾するだけで済む問題ではなく、組織や社会の問題に目を向けるべきだとする意識が広く共有されていると今回感じられることは、日本社会における大きな意識の変化の表れだと思う。背景には、少なからず海外の価値観を伝えるセレブや海外のエンターテインメントの影響もあるのではないだろうか。

 女性をめぐる問題において、あるいは現在の社会問題において認識しておかなければならないことの一つとして、intersectionality(交差性)の重要性に気付いたのもまた海外エンタメを通してだった。さまざまな差別の軸が組み合わさり、相互に作用することで独特の抑圧が生じている状況を指す言葉。フェミニズムなどを意識的に学習してきた人なら、当たり前の概念かもしれないが、この連載を始めるまでの私は意識してこなかった。ピークTV時代の秀作は、まさにこの「交差性」が巧みに描かれているからこそ、見応えがあるのだ。

 第10回で紹介した異なる人種、異なる階層の2人の女性が火花を散らす「リトル・ファイアー~彼女たちの秘密」は、その典型だろう。白人と黒人、富裕層と貧困、完璧な家族を持つ女性とシングルマザー、妊娠・出産でキャリアを中断した女性と自分のやりたいことを追求する女性。2人の女性の人生が交差することで悲劇へとつながっていく。劇中、自分は差別主義者ではない、リベラルな人間だと信じる白人女性の歪んだ認知もあぶりだされてはいるが、では黒人女性が全くの被害者かというとそういうわけでもない。どちらが良い悪いではなく、どれか一つの問題を切り離して語ることがいかに難しいかという現実を、娯楽という形でドラマチックに伝えることに優れた作品だ。

 ちなみにintersectionalityは、本作の製作総指揮、主演のリース・ウィザースプーンがインタビューなどでも好んでよく使っている言葉である。ピークTV時代には、ウィザースプーンを含め、女性主導で作られる作品も増えた。また女性の進出が遅れているとされてきた監督が女性であることを、主演女優が契約条件に入れるなどの“インクルージョン・ライダー(包摂条項)”が実行されているケースも目に見えて増えた。

 “インクルージョン・ライダー”とは、俳優が出演契約を結ぶ際にキャストとスタッフの多様性確保を求める付帯条項を追加するもの。職場における性別や人種などの割合に、現実社会と同様の包摂性を確約させる。18年3月に開催された第90回アカデミー賞の授賞式で、『スリー・ビルボード』で主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドが受賞スピーチで語ったことで話題となった時には耳慣れない言葉だった。だが賛同者は多く、20年秋に発表されたアカデミー賞作品賞の対象となる作品のテーマ・スタッフ・キャストの多様性を義務化したルールの変更を鑑みると、一般化しつつあると言える。

 当連載でもたびたび触れてきた「glee/グリー」や「アメリカン・クライム・ストーリー」シリーズ、「ハリウッド」などを手がけるヒットメイカー、ライアン・マーフィーなどは、キャリアの初期から題材や出演者だけでなく、舞台裏での多様性を実現してきた1人だ。

 人種や性的マイノリティにエイジズム、セクシズムなどあらゆる差別に異を唱えることでハリウッドに旋風を巻き起こしたマーフィーのヒット作の中でも、第4回で取り上げた「POSE/ポーズ」は画期的だった。アメリカで放送開始した当時としては、黒人のトランスジェンダー女性にフォーカスし、数多くのLGBTQのキャスト・スタッフを起用した本作の登場によって、私はトランスジェンダー女性の歴史をたどり、理解を深めるようになった。LGBTQの中でもTに当たるトランスジェンダーの女性、さらに人種マイノリティとなると、あらゆる意味において差別されるのだという序列のようなものがあることを知って驚いた。またフェミニズムにおいて、非常に難しい立ち位置にあることも。

多様性と映像世界

 このような社会の流れにジャストのタイミングで、ドキュメンタリーの関連作が数多く配信された。「トランスジェンダーハリウッド 過去、現在、そして」や「マーシャ・P・ジョンソンの生と死」などは大いに理解の助けとなる。学ぼうとすれば、簡単にリサーチできる良作が身近にある時代は、逆にいえば、そこに良作があることを知らない人にとっては大いなる損失になるのではないだろうか。

 この流れと並行して、動画配信サービスの躍進がLGBTQや人種マイノリティに関する作品を充実させていった。

 個人的には「POSE/ポーズ」を観てすごい! と感銘を受けたのは比較的最近の記憶である。しかし、それが前時代のことであるかのように感じられるほど、ハイエンドな作品群で知られるケーブル局HBOや、Netflixを筆頭とする動画配信サービスのオリジナルシリーズがLGBTQや人種ほかの多様性を売りとする作品群を次々と世に送り出している。今やメインキャストには、多様性が反映されていないと、視聴者が違和感を覚える時代である。

 多様性のある映像世界を当たり前のように受け取るZ世代を描いた作品もまた、多く観られるようになった。第5回で紹介した「EUPHORIA/ユーフォリア」から最近のトレンドであるポップな時代劇「ディキンスン~若き女性詩人の憂鬱~」などを観ながら、彼らの世代の苦しみを考えることは思った以上に痛みを伴うものでもある。Z世代が生きる世界に対して、アラフィフである自分の世代にも責任があることを思い知らされるからだ。それを認めることは、ある意味では自分の生き方や人生そのものが否定されるような感覚もある。

 しかし日本では周回遅れかそれ以上の、女性蔑視、女性差別がまかり通っている。先の森喜朗氏の辞任をめぐる騒動もそうだが、まだここなのか、という思いと同時に、今ここで自分も頑張らなければ何も変わらないという焦燥感にも駆られる。

 迷ったり、悩んだり、前向きになったり、内向きになったり。そうした等身大の自分の気持ちをこの連載で書きながら、なんと自分は無知だったのかと思わずにはいられなかった。

 振り返ると、若い頃の私には、女性が男性社会におけるマイノリティであるという認識があまりなかった。差別や不平等を感じることはあっても、社会の構造的に不当な扱いを受けることが常態化されているということを理解はしていても、変えようという発想がなかったといっていい。

 かわいくない女性、わきまえない女性として生きる自分は「女性として賢くない生き方」を選択しているのだから仕方ないとあきらめていたところがある。なぜなら、仕事において声をあげるたびに、哀れんだ微笑みを私に向けるのは賢い女性たちだったから。女性にも味方してもらえないのに、どうやって男性社会で男性に立ち向かえるのか? このような思考回路から、私の20代~30代の怒りは、むしろそうした賢い女性たちに向けられていたのだった。そうふるまわざるを得ない(かもしれない)女性たちの立ち場を思いやる発想も余裕もなく、自分の味方をしてくれない女性たちとして認識していたのである。

 30代も半ばを過ぎて、ようやく自分の間違いを認識してからは、自己嫌悪に苛まれた。自分もまた連帯できない人間の1人なのだと。だが、もやもやを抱える中でやはり海外のエンターテインメントはヒントをくれた。

 最近特に増えているのが、女性の連帯をはばむ存在としての女性を描いた作品だ。第13回で紹介した「ミセス・アメリカ」での、女性の保守派活動家とフェミニストたちの闘争。「ザ・クラウン」の主人公エリザベス女王や、シーズン4におけるマーガレット・サッチャーなど、男性社会をサバイブして成功を手に入れた女性像には、興味深いものがある。社会や女性を分断するものの根深さについて考えながら、自分が生きてきた時代と重ねて、仕方がなかったと思えることもあった。同時に、自分もまた加害者としての側面があったことを認識させられた。遅かったとしても気づくことができて良かったと思う。

心を変える必要性

 自分が変われば、作品の見方も変わる。冒頭で述べたクラシック映画もそうだし、ニューヨーク・マンハッタンで暮らす6人を描いた大ヒットシリーズ「フレンズ」での、人種のるつぼであるマンハッタンで白人6人が友人同士という描写にも違和感を覚える。あからさまに批判されると、ファンとしてはつらいものもあるが、こうした感覚を抱くことこそが、社会や自分自身の変化の証だ。そして、この変化は望ましく好ましいものなのである。

 私のお気に入りのフレーズに、”You change the world when you change your mind” というのがある。13年にブロードウェイでオープニングナイトに観たミュージカル版『キンキー・ブーツ』に登場するもので、舞台自体も素晴らしかったのだが、全体としてのメッセージを伝えるこのフレーズに心打たれた。「あなた(私)の心を変えたとき、あなた(私)は世界を変えられる」とでも直訳できるだろうか。

 日本ではある時期「ありのままで」という言葉がとてももてはやされた。もちろんありのままの自分でいること、ありのままの他者を受け入れる寛容さは大事なことだと思う。あまりにも不寛容な時代だから。一方で、自分が変わることの必要性を人生においてこれほど感じたこともない数年間だった。

 新型コロナウイルスによるパンデミックの影響は、いまだ未知数である。コロナ禍があぶり出した社会の分断については、あくまでも個人的な体験に基づき第9回に書いた。それから半年以上が経った今、別の問題も感じている。

 特に関心を寄せているのが、メンタルイルネスと自殺の問題だ。当連載で何度か取り上げた「13の理由」を筆頭に、これもまた現代の海外エンタメには欠かせない社会問題である。メンタルイルネスを前面に掲げなくとも、誰にとっても身近な問題として作品の一部に組み込まれていることが増えた。その種の優れた新作として「ふつうの人々」(STARZPLAY)と「ザ・ワイルズ~孤島に残された少女たち」(Amazonプライムビデオ)を最後に挙げておく。

 変化を受け入れ、自身も進化を続けること。この2年間の連載を通して、そのことを学ばせてもらった。力不足も痛感したが、このような機会を与えてくれた西村博一編集長と担当編集の太根祥羽さんに心から感謝している。2年間、本当にありがとうございました。

(※本稿の初出は『yomyom vol.67』(新潮社)です)

「変わり続ける世界のエンタメ。理不尽に声を上げる変化を受け入れ、自分も進化を続けること」のページです。などの最新ニュースは現代を思案するWezzy(ウェジー)で。