『FEEL YOUNG』と女の欲望ー安野モヨコ『ハッピー・マニア』『後ハッピーマニア』をめぐって

文=トミヤマユキコ
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 『ハッピー・マニア』が恋愛マンガとして真に画期的だったのは、恋愛体質の人物を登場させておきながら、恋愛の先にあると思われている結婚に対してどこまでも懐疑的であり続けたことだ。

 この点に関して近森高明は、「ハッピー・マニア、あるいは「恋愛結婚」の終焉?」(『文化社会学への招待──〈芸術〉から〈社会学〉へ』2002年4月、世界思想社)の中で、「物語の最後はしばしば、二人の結婚を予感させる幸福な光景でしめくくられる」ことが典型的な少女マンガであるにもかかわらず、同作では「『恋愛』と『結婚』がどうしようもなく分裂してしまっている状況」「シゲカヨの『恋愛』の過剰さは、つねに『結婚』をゴールとする回路をはみだして、その向こう側に突き抜けてしまう」と指摘している。近森の述べるように、シゲカヨは「彼氏欲しい」と繰り返すわりに、いざ彼氏ができて結婚の話にまで発展すると、それまでの多幸感が嘘のように元気をなくし、なんとか逃れられないかと画策しはじめる。彼女の欲望は恋愛にのみ振り向けられ、結婚はいわば欲望の対象外なのである。

 作中でのシゲカヨは、新しい男と出会っては別れを繰り返しているが、「タカハシ」という人物だけがシゲカヨと複数回付き合うことに成功しており、ある種の運命的な恋人であることが窺い知れる。しかし、どれだけ運命的であっても、結婚となると話は別だ。シゲカヨとタカハシの婚約は二度も破棄され、三度目の正直となるべき結婚式当日も「なんでだ?/あたし…なんでここにいるのかな/ウエディングドレスとか着ちゃって/何をしようとしてるのか/何になるの?/何をしたいの?/どーすんの?」と語っている。ぜんぜん腹が決まっていない。それどころかシゲカヨは、「彼氏ほしい!!」と叫び、式場のドアをじっと見つめたりするのだった。その表情はここから逃げ出すか逃げ出すまいか逡巡しているように見えるが、結末まで描かないまま物語は幕を下ろす。フクちゃんによれば、シゲカヨは式の前日も逃亡を企てて「貨物船の倉庫で発見された」とのことだから、ここで逃げたとしてもおかしくない。でも、実際どうなったかは、描かれていないのでわからない。

 大学教員であるわたしは、このシーンを学生に解説し、シゲカヨのその後を予想してもらうことにしている。これをやりはじめた10年ほど前は、『ハッピー・マニア』を笑える作品として読む学生が多く、予想することについても「おたのしみ」として取り組んでくれたが、最近では現実に引きつけて読む学生が増えており、「このひとは一体何をしたいのか」「このままでは独居老人だ」「恋愛が好きなのに自分磨きを全然してないのはおかしい」といったクレームが出るようになった。彼らはたとえフィクションであっても、向こう見ずな人物を許容しない。成功することより失敗しないことを望み、若い時から慎重かつ分別のある生き方を選ぶ超安定志向の学生たちにとって、シゲカヨの向こう見ずな生き方は、たとえフィクションであっても笑えない「暴挙」なのだろう。

15年経とうが「ふつう」は苦しい

 シゲカヨは式場から逃げ出し恋愛ひと筋に生きるのか、それとも、観念してタカハシの妻になるのか——この答えは、『後ハッピーマニア』の中で明らかにされている。

 『後ハッピーマニア』でわたしたちを待ち受けているのは、45歳になった「カヨコ」だ。「シゲカヨ」じゃなく「カヨコ」なのは、姓が変わったから。そう、シゲカヨはあのとき結婚式場から逃げださなかったのである。しかも、浮気もギリギリのところで回避している(未遂が1回あっただけ)。恋愛に関しては暴走するのがデフォルトだった彼女が、タカハシとの結婚を15年も継続できているわけだが、あろうことか、あんなに一途だったタカハシが別の女性を好きになってしまって、カヨコに離婚を切り出している。年月はひとを変える。その残酷さをのっけから描くことで、『後ハッピーマニア』は結婚のままならなさをダイレクトに伝えてくるのだった。

 基本的にずっと専業主婦で、ろくにパートもしてこなかったカヨコは、突如勃発した離婚騒動に対し、ショックを受けるよりも「今更!?」と腹を立てている。キャリアと呼べるものが何もない彼女が、ひとりで生きていくのはたしかに大変そうだ。どうせ離婚するならもっと若いときにしたかった。それが彼女の偽らざる本音だろう。

 50歳になったフクちゃんも、カヨコに負けず劣らず大変そうである。カヨコと違って若い頃から仕事に重きを置いてきた彼女は、結婚・出産を経て美容の仕事を再開、見事ヒット商品を開発し、バリバリの女社長になった。それ自体はすばらしいことだが、仕事にのめり込みすぎて夫と子どもに見放され、ひとり暮らしとほぼ変わらぬ生活を送っている。夫には、もうすでに愛人がおり、息子も愛人宅から通学したがっていて、実家に寄りつこうとしない。フクちゃんの言葉を借りれば、「離婚したがってんのは向こう」であり、ここから家族関係を修復するのは容易ではないように思われる。

 ちなみに、そんな彼女の元を訪れるのは、馴染みのマッサージ師だけだ。若く溌剌としたこの青年がフクちゃんに提供するのは、「女性の…深部のコリを/やわらかくほぐす…という意味でのストレッチ」であるという。

 ここまで読めばもうおわかりだろう。『後ハッピーマニア』は、そもそも結婚に懐疑的だった人間を一度は結婚させ、しかるのち破綻へと導くことで、結婚に対する懐疑の色合いをこれまで以上に強めているのだ。もともと結婚に否定的なシゲカヨはもちろん、自身の結婚式が終わった瞬間、燃えつき症候群のようになり家出した経験を持つフクちゃんだって結婚が得意なタイプとは言いがたい。「現実的なフクちゃんと、非現実的なシゲカヨ」の対照的な関係も、こと結婚についてはほとんど差がないのだ。

 アラフィフのふたりは、15年の時を経てもなお世間一般の考える幸福に収まりきれずにいる。本当に「相変わらず」としか言いようがない。しかし、「ふつう」が苦しい人びとにとっては、そのはみ出し方こそが魅力である。なぜなら「ふつう」に殉じることなく生きる女の姿をそこに見出せるし、なんならロールモデルとすることだってできるからだ。かつてのシゲカヨやフクちゃんにロールモデル的なところはほぼなかったが、いまの彼女たちは「相変わらず」であることによって、アラフィフ女性のなんたるかを読者に伝えてくれる立派なロールモデルである。

「終わってる」世界で生き直す

 『後ハッピーマニア』連載開始時期の『FEEL YOUNG』の表紙を見ると、ヤマシタトモコ『違国日記』、ためこう『ジェンダーレス男子に愛されています。』、志村貴子『ビューティフル・エブリデイ』、有生青春『婚姻届に判を捺しただけですが』といった作品が大きく扱われている。これらの作品に登場するのは、亡くなった姉の子どもを引き取って暮らす小説家の妹、服装からメイク、ネイルに至るまで完璧な男子とごくふつうのOL、母親の再婚によって家族になったエロマンガ家の娘と童貞をこじらせた義兄、とある理由から既婚者の肩書きを手に入れたいと考える男とその願いを聞き入れる女、などである。
 彼らが紡ぎ出すのは、旧来的な女らしさ/男らしさを否定し、恋愛→結婚という王道ルートを周到に回避する物語である。90年代の『FEEL YOUNG』に見られた怒濤の勢いはもうないかもしれない。しかし、あの頃のフィーヤン的フェミニズムを受け継ぎながら、恋愛・結婚・ジェンダーに関する意識をアップデートしていることが十分に見て取れる。

 『りぼん』と『なかよし』と『ちゃお』を読むことが同じ体験ではないように、『FEEL YOUNG』を読むことも、ある「傾き」を持った読書体験であり、特定の宗派への帰依だとも言える。わたしは常々「女子マンガは人生の参考書である」と言っているが、安野作品という参考書を通して看取されるのは、「何かを奪われ、あるいは毀損された女たちが、『終わってる』としか思えない世界で生き直そうとする」ことの尊さだ。

 世の中はいつだってクソである。しかし、ひとまず、生きていくしかない。女であることで、より一層クソだと感じることもあるだろう(わきまえない女、とか言われたりして)。しかし『FEEL YOUNG』のような宗派と、そこに出入りするマンガ家が存在する限り、どうにか生きていける気がしている。女の欲望が全肯定され、「ふつう」からはみ出してしまっても別にいいのだと思えることは、エンパワメント以外の何物でもない。しかも、『後ハッピーマニア』を見ればわかるように、いまの『FEEL YOUNG』は若者だけでなくアラフィフの人生までカバーしてくれる。これが、この先も続く「終わってる」(かもしれない)人生をサバイブするためのお守りでなくて、一体なんだと言うのだろう。

(※本稿の初出は『yomyom vol.67』(新潮社)です)

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