「バ先」「バおわ」変質する言葉〜人類史上、もっとも若者が文字に接している時代で

文=サンキュータツオ
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(写真はイメージです)

(※本稿の初出は『yomyom vol.67』(新潮社)です)

アップデートされていく言葉たち

 この一年、コロナ禍にあって、人々の感覚は徐々に変わりつつある。たとえば「コロナ」という言葉にしても、「新型コロナウイルス」の略称だと思っていたら、「コロナが心配ななか、~」という使われ方が出てきた。これだと受け取りようによっては新型コロナウイルスさん大丈夫かな、と心配しているようにも取れるが、人は賢いもので決してそうは取らない。「新型コロナウイルスにかからないかどうか心配ななか」という意味だろう。つまり、「コロナ」≒「コロナに感染するリスク」という意味に拡張した。

 さらにいえば「コロナで自殺」という痛ましいニュースもあった。これは新型コロナウイルスに罹ってしまった会社員が、会社の同僚に迷惑をかけてしまったということを気に病んで自殺してしまったというニュースだ。この場合は、「自ら率先して新型コロナウイルスに罹って亡くなった」のではなく、「新型コロナウイルスの罹患を気に病んで自殺した」ということだから、「コロナ」≒「新型コロナウイルスに感染したこと」を指す。意味の拡張が、じわりじわりと別の方向にも伸びていくのだ。「コロナ離婚」「コロナ婚」は、「コロナ」≒「コロナ禍」といったところか。新語は感染力も強い。

 言葉に「正しい意味」や「正しい用法」は存在しない。もし「正しい意味」なるものが存在するのであれば、辞典なんてものは一冊、それもはるか昔に作ったものだけで充分なはずで、わざわざ新しい辞典などを作る手間は必要ないことになる。しかし上記のように言葉は常に姿を変え、生きている。「忖度」は漱石の小説にもよく出てくる言葉であったが、長らく良い意味で使われていたもので、もう現代で使われることもないだろうと思っていたところに、今度は悪い意味で使われるようになった。人とおなじで、青年期から壮年期までずっと体型が変わらなかったように見えて、ある時から急激に変化することもあるのだ。

 私は芸人であるが、日本語学に携わる学者でもある。専門は文体論だが、国語辞典が好きでよく読んでいる。海外から来る留学生たちに日本語を教えてもう13年目(去年はすべてリモートだったが)、また、大学一年生の初年次教育をはじめて4年目になり、日本人の学生が使う新語などもいち早く耳にする機会に恵まれている。今回はそんな私がこの一年間の日本語トピックのなかから考えさせられたものについてご紹介したい。

「燃やすしかないごみ」

 福岡県柳川市が、市民のごみ分別の意識を高めるために、指定の可燃ごみ袋のデザインを変更、名称も「燃やすごみ」袋から、「燃やすしかないごみ」袋へと変更した。これは昨年11月28日に報道され、本年元日から発売されている。昨年は、レジ袋も有料化され、じゃあ商品のラッピングはどうなんだとか、実際にレジ袋がどれだけ環境に悪いのか、データは示されたのか、など話題にもなり、環境問題という大義にかこつけたコロナ増税ではないかと言われたりもした。しかし、実際に在宅時間が増えてゴミが増えたことも間違いない。レジ袋というよりはゴミ袋のほうが利用の回数は増えただろう。

 ゴミ袋に関して、自治体や企業、組織ごとに表記や表現が違うのはお気づきかと思う。たとえば「可燃」に関しては、

・燃えるゴミ
・燃やすゴミ
・燃やせるゴミ
・燃やすことができるゴミ
・その他のゴミ(カン、ビン、ペットボトル、雑誌、新聞という分別があったうえで)

などが存在する。

 おそらく「可燃」は子どもでも理解できるかどうか不安だというのがあるのだろう。「燃えるゴミ」は、従来使われてきた表現であるが、自動詞「燃える」を使うと勝手に燃えるイメージがまとわりつくので分別の意識を高めるにはもう少し表現の工夫があったほうがいいだろう、という判断があるのかやや減少傾向にある。代わって台頭してきたのは「燃やすゴミ」である。「燃やすかどうかは俺が決める!」という誠に意志の強さを感じる表現だ。

 しかし燃やそうと思えば、環境のことを考えなければたいがい燃やすことはできる。判断するのは自分ではなく、公共のルールでしょ、というニュアンスで「燃やせるゴミ」も出てきた。「燃やせるゴミ」は、「可燃」をやさしく言い換えた感じもありながら、「ルール上は燃やせる」という、「燃やす!」よりは穏健派が好みそうな表現だ。「燃やすことができるゴミ」はそういう意味では厳密で誤読もされにくいが、長いのが欠点だった。はじめて見たときは二度見した。これがOKならば「燃やそうと思えば燃やせるゴミ」「ルール上燃やせないゴミ」でもいいだろう。

 さて、そんな「燃やすゴミ」「燃やせるゴミ」が新たな覇権を握りつつあったときに、「燃やすしかないごみ」の参入である。言いたいニュアンスはわかる。致し方ない、燃やしたくはないが、これは燃やすしかないのだというゴミ。決して、「これが親やパートナーに見つかったら殺される……もう、燃やすしかない!」というニュアンスではない。みんなギリギリまでがんばった、でも、「燃やすしかないごみ」だね、である。ここに、「可燃ゴミ三国志」が発生、「燃やす」「燃やせる」「燃やすしかない」の三国鼎立(ていりつ)時代が新たな世を切り拓くのか、乞うご期待である。ゴミの表記にはここ20年ほど、考えさせられている。

新しい「自粛」

 宣言を要請したり、解除要請したり、いったい宣言を出しているのはだれなのか? 緊急事態宣言て、そういうものなのか? 知事と国、たしかに連携はしているけれども、全国一律で見ている側と、自分の自治体の責任を負っているものとで、考え方も違うだろう。「宣言」もだれがするのかによって、だれかが「要請」したり「解除」することも可能ということになる。宣言というのはトップダウンかと思いきや、主導権はどちらにあってもよいという例を見せてもらった面白い例だ。

 ただ、これはだれしもが指摘してきたことかもしれないが、「自粛要請」という言葉には度肝を抜かれた。「自粛」は「自分から、おこないや態度をつつしむこと。」(三省堂国語辞典 第七版)、「自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと。「報道を―する」」(岩波国語辞典 第八版)という記述を参考にして考えると、自主性が大きな要素であることは言うまでもない。他人から「要請」されて「自粛」するということはないはずなのだが、一応コロナ禍における日本の状況は「自粛は要請されたらするもの」ということになっている。大変興味深い現象なのだが、日本語学者はこういう言葉に眉をひそめたりはしない。かっこうの観察対象だからだ。

 こういった言葉が生まれるのには必ず背景がある。たとえばこの言葉に関しては、自粛することによって生まれる損失を補償するかどうかという問題だ。もし「要請」された自粛なのであれば補償が出るが、そうでないものに関しては出ない、といったことである。コロナ禍では、感染源やクラスターの発生源となる飲食店は営業時間を短縮することまで指示され「自粛を要請」された形だ。あくまで自粛なので、やっていても違法性はない、という線引きだ。が、協力した店舗には補償金が出る。これが「自粛要請」の実態である。

 私が関わっている劇場は映画館を改装したユーロライブという場所だが、20時以降の不要不急の外出を控えるように周知されている今、当然20時以降にイベントなんかやるなよ、という空気である。劇場なんて早くても19時開演なのだから、もちろんすべての公演がキャンセルだ。飲食店以上に損失は大きい。ただ、劇場に対する補償は一切されない。補償したくないから「要請」ではなく「声かけ」「呼びかけ」という表現になる。劇場は「自粛」「時短営業」を「呼びかけ」られた形だ。呼びかけに強制力はないから補償もしない、というロジックなのである。うまいこと考えたものだと思う。

 ちなみに「自粛警察」「マスク警察」なんていう言葉も頻繁に耳にした。警視庁の人間でもない一市民なのに、自粛営業に関してチェックをして、したがっていない店舗には嫌がらせをしたり、マスクをしていない人を見つけたら注意をする。頼まれてもないのにチェックする側にまわる人たちを「○○警察」と呼ぶ言い方は、「警察」という言葉が担うあまりイメージのよくないニュアンスを借りているように思う。警察の人たちは「○○警察」という言葉をどう思っているのだろうか。そのうち女性警察官とわいせつ行為をしたりしていないか、不正を行っている人はいないかなどをチェックする「警察警察」も出てくるのではないか。そんな気さえしてくる。警察はもはや、組織ではなく概念になりつつある。

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