「バ先」「バおわ」変質する言葉〜人類史上、もっとも若者が文字に接している時代で

文=サンキュータツオ
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 また、昨年出会った衝撃の略語に「バ先」「バおわ」があった。大学生の八割以上が実際に聞いたり使ったりしていたのだ。これは「バイト先」「バイトおわり」のことである。そもそも「バイト」自体が「アルバイト」の略語であるのだが、さらに「アルバイト先」を略そうとしたとき「バイト先」と言っていたのを通り越して「バ先」と進化したのである。「バイトおわりでそっち向かうから駅前で待ち合わせ」というときも「バおわ駅前」である。

 これほどまでに横着になってしまった理由はなにか。これまで使っていた言葉さえ省略をする、というのは言葉の経済効率を高めるなんらかの要因があるはずだ。そう、つまり「書くことの煩わしさ」、「打ち込むことの煩わしさ」を少しでも軽減したいという理由からだろう。「バイト」と三文字分フリックするより「バ」とカタカナで表記するだけで伝わる。「お」だと表現選択の可能性はたくさんありすぎるが、「おわり」と言い切らずとも「おわ」だと「おわり」とだれもがわかる。二字決まりのようなものだろう。つまり「バおわ」と三文字の入力で済む。「バイトおわり」から三文字も省略でき、半分の労力で真意は伝わる、というわけである。初見だとたしかにぎょっとするが、当人同士がこれで意思疎通ができるのであれば問題ない。それが言語というものだ。記号があり、音(読み)が伴っていて、意味もある。

 国語力の低下や、誤読の要因に、よく若者が文字を読まなくなってきている、触れなくなってきている、なんて言説をしているのを見るが、まったく逆である。人類史上、若者がこれだけ文字に日々接している時代はない。テレビをつければ画面上文字だらけで、常にいまどんな内容のものが映っているか教えてくれる。スマホを開けばSNSにゲームアプリ、どれも文字ばかりだ。ツイッターやLINEなど文字しかない。しかもグループに入ろうものなら、何十件と読まなければならない。精読している時間などないのだ。当然、「飛ばし読み」をするようになる。というか、そうしなければ情報を消化しきれない。ただでさえリモートが増え、何人もの相手と文字でのやりとりをしなければならなくなっている。6文字打つ時間があったら、3文字の言葉を2回送ったほうが断然効率がよいのだ。

 そもそも言語を使っているだけマシ、一番簡単なのはスタンプだ。そう考えると、顔文字や絵文字、スタンプというのはすでに言語にもなってきている。記号、音、意味というセットで「言語」と定義するのも、もはや古臭い感じもしてくる。記号と意味と文脈で理解でき、すでに音は必要なくなってきているのではないだろうか。

 今年度の大学一年生は、2001年~02年生まれが多かったが、授業をやるうえでもっとも印象に残っているのは「先生、Eメールってどうやって使ったらいいんですか」という質問だ。すでに教育の現場でIT化がすすんでいるのに、メールの仕方も知らないのかと思う人もいるかもしれないが、実際のところ、彼らは知らない。というのは、彼らが物心ついた頃には、すでにスマートフォン時代、メールのやりとりなどしなくてもいい時代なのだ。スマホが普及し始めたのはだいたい2007~8年くらい。LINEの普及は2010年代初頭なので、彼らが中高生になってスマホを買い与えられた2014~16年あたりは当然のようにLINEを使用していた。ショートメールとLINEだけで充分で、その他の連絡にメールを使用したことはない、という大学一年生が実際少なからずいるのだ。私たちにとっての「手紙」くらいフォーマルなものが、「メール」になりつつある。

 それもいまや5年くらい前の話で、いまじゃ若者のLINE離れが進んでいる、なんて話もあるくらいだ。ツイッターにもいない、LINEもしないで、なるべく情報を断捨離して生きている。そうでもしないと、求めてもいない情報が、後から後から湧いてでてくるのだ。こう考えると、少し気の毒というか、共感できる部分もある。「本離れ」は仕方ないにしても、「マンガ離れ」って言葉を聞いた時はどうなってんだよと思ったものだが、こういう背景もあって、人は少しずつ情報から距離を置き始めているのかもしれない。自分の感情からも距離を取って、どこか自分という肉体の実体のない世界に、自意識だけを潜り込ませたいのではないか。

 そんなことすら考えさせられたコロナ禍のなかのリモート授業であった。

 言葉は生きている。そしてその意味や用法、使ってみたときの感覚も少しずつだが確実に、アップデートされている。しかしそこから逃げるようにして情報を遮断すると分断を免れない。開き直ると、いつぞやの五輪組織委員会会長のように、旧世代の価値観を押し付けることになる。これでは娘や孫娘にも叱られてしまうだろう。

 苛立つ表現から目を背けないこと、聞いたことのない表現を楽しむこと、新たな表現が生まれた背景に想いを馳せること。すべては想像力だ。言葉は感覚的だからこそ、自分が育った時代の感覚に束縛され、すべての人が保守化しやすい。そうならないために、感覚にあらがう。私がやっていく作業はこれからもおなじである。

(※本稿の初出は『yomyom vol.67』(新潮社)です)

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