生死の意味をめぐる問題ーー哲学者が考え、引き継いできたもの

文=平原卓
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外部論の原理的批判

 ところで、ニーチェの認識論からすれば、語り得ない〈外部〉という観念もまた、情動を原理として生成するものということになる。この点に関して、ニーチェの示す原理を踏まえれば、次のように言うことが出来る。

 〈内部〉に対立する〈外部〉それ自体は存在しない。語り得ないものが人間性の〈外部〉に存在するということは、それ自体が一つの観念であって、人間性の〈内部〉において歴史的に生成してきたものである。従って問題は、〈外部〉の実在を証明出来るか否かではなく、〈外部〉の観念が欲され、作られ、かつ共有されてきた本質的な動機と条件を解明することにある──。

 ニーチェの認識論は、〈外部〉に関するそれまでの問題圏の水準とは全く別次元で展開される、極めて革新的なものである。実際、ニーチェの洞察は、カントの議論に対する批判を超えて、近代哲学に至るまで残存する〈外部〉の観念を払拭し、外部論一般をその基礎から打ち崩すという意義を持っている。

 〈外部〉の存在は、情動に応じて生成される観念であるということ。このニーチェの洞察は、現代に至るまで、外部論に対する根本的な批判としては、最も優れた洞察の一つである。この卓越性は、ニーチェの洞察を単なる権威批判の相対主義として受け取っている限り、決して把握することは出来ない。端的に言って、ニーチェはもはやそうした水準では洞察を展開していないのである。

生み出される道徳

 以上のニーチェの認識論は、彼の議論を根本で支える原理である。ニーチェの道徳批判、キリスト教批判も、その土台の上で展開されている。この点に関して、ニーチェはどのように論じているか。

 ニーチェは『道徳の系譜』で、清貧と禁欲を善とするキリスト教の倫理は、〈強者〉に対する〈弱者〉の反乱を通じて作り出されたものであると論じる。

 ニーチェによれば、〈弱者〉は〈強者〉に対し、正面から向き合うことはしない。その代わりに、「強さは悪であり、弱さこそが善である」というようにして、善悪の意味を逆転させる。〈弱者〉は、既存の健康な価値体系の支配に対して蜂起し、いわばゲームのルールそのものを書き換えてしまうというのだ。

 ニーチェは、この過程を通じて、弱さや貧しさを善とする理想が生み出されてくると考える。これをニーチェは、禁欲主義的理想と呼ぶ。

 一切の価値の背景には、それを生み出すに至った動機の歴史的なコンテクストがある。ニーチェによると、禁欲主義的理想の場合は、〈強者〉に対する〈弱者〉のルサンチマン(怨嗟)がその光源を成している。

 一方、ニーチェの言う〈強者〉は、禁欲主義的理想とは無縁の存在である。〈強者〉は、ここではない別の世界を想定するようなことはせず、祈ったり何かにすがったりすることもない。その代わりに、自らに課された現状を引き受け、それを積極的に肯定し、何が善悪であるか、正不正であるかを自ら導くことが出来る。そうした能力の自覚に満ち溢れた意志を、ニーチェは〈強者〉と呼ぶのである。

 これに対し、衰弱した意志は、現実に対して直面出来ず、よりよい価値解釈を作り出すことが出来ない。その代わりに、仮想敵を作り出し、それを否定することで、自らを相対的に価値あるものとして解釈する。観念の内で〈強者〉を引きずり下ろし、自らを相対的に高みに置く態度が〈弱者〉の特徴である。

 既存の価値体系の内で〈弱者〉であることが面白くない。〈強者〉のせいで、自分は弱い存在、劣った存在ということになってしまっている……。〈弱者〉は、いわば逆恨みの感情から、既存の自然な価値体系を逆転させ、現実を否定し、生に対して敵対的に振る舞うようになる。貧弱が「善人」の条件とされ、強壮は悪と見做される。清貧に美が見出され、欲望は不潔で、醜いものとして意味付けられる。ニーチェは、キリスト教道徳はこうした反動形成によって作り出された〈弱者〉の道徳に他ならないと説くのだ。

 私たちは、道徳を説き回り、道徳に反するような行為をする他者を一方的に断罪する人間に対して、一瞬の内に不誠実さを感じ取る。それは単に、そうした行為が独善的であるからという理由に留まらず、〈弱さ〉が他者への攻撃に結び付くという動機のロジックについて、私たち自身に思い当たる所があるからだ。

 言うまでもないが、誰にとってもこの現実は、完全無欠の理想状態であるのではない。私たちは皆、与えられた一定の状況の負荷を感じながら、それぞれの生を生きている。近代以降の人間にとって、この過程で現実と向き合いながら、自分の「こうありたい」や「こうしたい」に折り合いを付けて、自分の存在を受け入れるという課題は、とりわけ思春期から青年期にかけて重大なものとして立ち現れてくる。

 その過程で、私たちはそれぞれの仕方で一定の葛藤を経験せざるを得ない。それは本質的に、様々な生の可能なあり方から自分のものを選んでいかなければならず、しかも、その選択を無かったことにすることは出来ないからである。もし時間を任意に巻き戻し、生き方を何度でも選ぶことが出来るのであれば、そうした葛藤が起こってくることは無いだろう。一旦消費された生の時間を取り戻せないからこそ、生き方の選択は私たちにとって、切実な意味を帯びる課題となるのである。

 一般的に広く思い描かれるような夢を達成出来る人間は、現実としてはごく少数である。ベストセラー作家になったり、芸人としてブレイクしたりすることが出来るのはごく限られた一部の人間だけである。夢を追いかける人間の大半は、その途中で方向転換を迫られる。この点についてどのように対処出来るかということは、近代以降の人間にとって一つの重要な問題となる。

 その際、現実の論理が間違っていると考えること、また、自分を評価しない社会を批判することは容易である。だが、現実と理想の自分に折り合いを付けることは、それほど簡単な課題ではない。現実を直視するには、一定の〈強さ〉が必要となるからだ。私たちが、道徳の観念によって他者を断罪する人間に不誠実さを覚えるのは、彼がこの課題に取り組む人間の内面の葛藤を無視しているだけでなく、彼自身がそうした課題から目を背けていることを直観するからだ。自分自身に不誠実な〈弱い〉人間を、私たちは信用することが出来ない。

 もっとも、ニーチェは、キリスト教の道徳体系が〈弱者〉の都合に合わせて恣意的にひねり出された──従って、それを取り消すことも容易である──と考える訳ではない。ニーチェの説では、キリスト教の価値体系は、歴史的な過程を通じて生成してきたものである。特にそこでは、祖先に対する負い目の感情が大きな役割を果たしているという。

「民族の祖先による犠牲の上に、初めて自分は生きられているのだ」という「感謝」は祖先崇拝の核を成しているが、ニーチェに言わせれば、実はこれは、返しきれない債務を祖先に対して負っているという感情である。

 祖先に対する負い目は、畏怖の形を取るようになる。ニーチェに言わせると、ここから〈神〉の観念が成立してくる。つまり、神の起源は、負債を返せないのではないかという恐れの感情、疚(やま)しさであるというのだ。

 ニーチェによると、キリスト教は、債務感情や負い目を解消させず、それを永久に抱かせ続けるための方法を備えている。その中心に存在するのが、他ならぬイエス・キリストである。

 神であるイエス・キリストが、愛によって自ら人間の背負う罪を償う。だが、負債を返すべき相手、イエス・キリストは、もはやこの世には存在しない……。この論理を通じて、キリスト教は人間から負債を完済する可能性を奪い去った、とニーチェは説くのである。

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