永遠回帰の思想──現実を〈内部〉から肯定し得るか
以上の議論において、ニーチェは何を問題としているのか。
それは、歴史の内で形成されてきた意味の体系が、いまや人間の人間性に対する桎梏(しっこく)として働いているということである。
人間の自由の意識は、意識の内に留まらず、共同体を導くような観念となる。理性の自由は、来世の存在を、問答無用で一方的に示す否定神学の論理から説得力を奪い、それと共に、その論理に説得力を与えてきた宗教=政治権力の絶対性を否認する。認識の正しさと社会の正しさのいずれも、もはや語り得ないものではなくなり、意志の表現と、その交換によって導かれるものとなる。それら正しさの根拠は、共に、人間性の〈外部〉から〈内部〉へと移し替えられ、〈外部〉の観念により私たち人間の自由を抑圧することは、正当とは見做されなくなる。
だが、現世における正しさの根拠を人間性の〈内部〉に置くとしても、そこから〈外部〉の観念が直接に効力を失う訳ではない。〈外部〉の観念を保ちつつ自由な社会の原理を構想することは、論理上は可能である。実際、近代哲学者のホッブズやカント、ヘーゲルらの議論においては、最高存在としての神の観念は死んでいない。ヨーロッパに限らず、ニーチェ以前の知識人の間で無神論はごく例外的な思想だった。
神の観念と、市民社会の原理に関する構想は、それ自体では矛盾しない。ニヒリズムはむしろ、その構想に応じて自由な社会が展開してくる実際の過程で現れてくるのである。
ニーチェは、自由の観念が展開する過程で、神の観念に対する挫折が起こり、生の目的が失われることについて深い確信を抱いていた。
何をすればよいか分からない。もっと自由に生き方を選択出来るはずなのに、どういう生き方が自分に適しているのかよく掴めない……。現代におけるこうした困難の感覚は、ニーチェの原理の視点から見れば、例外ではなく、自由の意識が進展し成熟した時代においては、むしろ普遍的に経験されるものである。
もはや来世の方から、この現実を引き受けることは不可能である。ニーチェは、宗教の絶対的な権威が生活の実感の水準において失墜した時代で、どのようにして〈外部〉の観念に依拠せず、ただこの現実の内側で生全体を引き受け、肯定することが可能となるかという課題に取り組んだ。
この過程でニーチェが導いた原理が、永遠回帰の思想である。ニーチェによると、これは救済の観念に依拠することなく、この現実を絶対的に肯定するための思考の原理である。以下では、永遠回帰の思想の意味について、その要点を簡潔に確認することにしたい。
永遠回帰の思想は、文脈としては、死後の世界における救済を説くキリスト教の観念に対置されたものである。
キリスト教では、現世における苦悩は来世によって報われるという観念によって、人々に生きる意味を保証してきた。たとえ現世がどれだけ惨めなものでも、それに耐え忍び現世での生活を終えれば、来世に救いが待っている。現世の苦しみは、来世によって報われるはずであるとされ、苦しみに対して意味が与えられた。現世の意味は〈外部〉によって肯定された。ニヒリズムは、この〈外部〉から意味が失われ、何のために生き、また、何に向かって生を方向づければよいかということが不明となった事態のことである。
ニーチェは、永遠回帰の思想をニヒリズムの究極形態と考える。それは、この思想が世界を、始まりも終わりもなく、ただ無限に同じ状態が繰り返すだけのプロセスとして把握するからである。
これは、イメージとしては、摩擦など抵抗の無いビリヤード台で、ビリヤードの玉が何度もぶつかりあって止まらずに動き続けている状態を考えると分かりやすい。
誰かがそれに手を掛けない限り、ビリヤードの玉は永遠に動き続け、何度も同じ状態を無限に繰り返す。いまこのビリヤードの玉の並び方は、既に何度も数え切れないほど繰り返されたものであり、また、これから数え切れないほど繰り返されるものである。全く新規の状態は、ここでは現れてくることが無い。
キリスト教は、現世を、来世の観念によって受け入れることの可能性を示した。
一方、永遠回帰の思想においては、来世や、別の世界というものは初めから想定されない。
永遠回帰する世界には、生の絶対的な目的も、来たるべき終末も存在しない。世界は始まりも終わりも持たず、ただ同じ状態が遠い過去から彼方の未来へと繰り返すだけの無限の運動に過ぎない。苦しみが報われる保証は無く、それどころか、苦しみは永久に繰り返される。この現実の外側に逃れることは、決して出来ない。
こうした世界を私たちは欲し得るか。
もし繰り返されるのが苦しみだけであるならば、それは恐らく不可能だろう。
だが、この世界では、苦しみだけではなく、一瞬の幸福も無限に経験される。ニーチェはこの点に、永遠回帰の思想が導く一縷(いちる)の可能性を認める。
つまり、永遠回帰の思想は、どれだけ微小な幸福であろうと、その一瞬を手掛かりにすることで、私たちは、この現実をその内側から肯定し、いつか再び経験されるべき幸福を生み出していく意志を持つことが可能になると説くのである。
〈内部〉から逃れられないのであれば、私たちに残された唯一の可能性は、ただそれに向き合うことだけである。──この意志に備わる真摯な強さは、まさしくニーチェの説く〈強者〉の有する性質である。
たとえこの現実が、底辺から腐っているように思えても、道徳や「真の世界」の観念によってそれを批判せず、その内側から肯定することが出来るか。〈外部〉無きこの唯一の現実を引き受け、「……であればよかったのに」と空想せず、生の意味を、この現実の内側から生み出していくことは可能か……。ニーチェの永遠回帰の思想は、内部論的態度を徹底することによって、これらの課題を初めて私たちの意識の水面へと浮かび上がらせたのだ。
ニーチェに運命愛という概念があるが、それはこの課題の孕む極度の困難において理解されるべきものである。これは、一度限りの生に向けられるロマン的な愛着ではないし、ましてや「この人生を謳歌しよう」という宣言では更々ない。ここではむしろ、目的を持たず無限に回帰する現実全体を受け入れられるか、その無意味さと冷酷さを肯定し得るかということが問われているのだ。ニーチェの説く愛の概念は、どこまでも真摯な強さに支えられたものである。
『ツァラトゥストラはこう語った』以来、ニーチェは永遠回帰の思想を、一つのフィクションとして示しており、その意味でこれは思考のてこに過ぎないものではある。
ただし、内部論的態度に立脚するとしても、永遠回帰の思想が立証不能な仮説であるという点で、それが持ち得る説得力には根本的な限界がある。
現代の自然科学では、宇宙がどのように終わりを迎えるか、そもそも終わりと呼ばれる状態が存在するのかについては様々な仮説が示されている。宇宙の構造は時間によっては変わらないとする考えや、この地球を含む宇宙全体のエネルギーはいずれゼロになり、熱的死と呼ばれる状態に至って静止するという考えなどが立ち並び、未だ決着は付いていない。
もっとも、認識論の観点からすれば、そもそもこの点については完全な見解の一致は起こり得ないと言うべきである。それは、宇宙がどのように終わるかについては実際に終わりを迎えなければ確かめられないが、原理的に言って、その時点に至れば、宇宙が終わったことを確かめる視点は既に消滅してしまっているからだ。これはちょうど、人間は自分の死の瞬間を自分自身では確認出来ないことと同一である。この不可能性は、私たち人間の理性に共通する本質的な構造なのである。
世界そのものがどのようにして存在するのか、また、それがどのように始まり、どのように終わるのかについて、絶対に確実なことは誰にも知り得ない。龍樹が論じていたように、私たちの言葉が世界に合致しているか否かを確かめることは、言葉を用いず合理的に思考することが出来ない以上、原理的に不可能である。それでもなお、その不可能性を乗り越えようとするならば、私たちは、自らの意識から離脱して世界の真理へと達する可能性を説く神秘主義思想の道へと進むことにならざるを得ないのである。