生死の意味をめぐる問題ーー哲学者が考え、引き継いできたもの

文=平原卓
【この記事のキーワード】

人間性を内部論的に考察すること

 生の〈外部〉から〈内部〉の意味を引き出す試みの不可能性が明らかとなった時代において、ニーチェは、私たちがどのように自分自身の生を意味付け、引き受けられるかという課題を初めて明らかにし、それに取り組んだ。この点で、ニーチェの思想の偉大さは、いまなお否定することが出来ない。

 それでもなお、私たちの内で来世の観念が死んでおらず、道徳を説き回る人間が絶滅していないことは、ニーチェの議論が十分に正当ではなかったことを示している。

 永遠回帰の思想は、強烈かつ大胆な試みだった。しかし、仮説の域を出ないという点で、根本的な困難を抱えている。ニーチェは永遠回帰の思想を、自覚的にフィクションとして示している。しかし、自覚的であろうとなかろうと、哲学的には、物語によってではなく、どこまでも概念的に思考を展開しなければならない。

 私たちには、誰にとっても確かめられる開かれた洞察を通じて、〈外部〉の観念に依拠せず、ただこの現実の内側に立脚して、生死の意味を解明するという課題に応える原理を示すことが求められている。そして、ニーチェ以降の二〇世紀の思想の大半が、哲学を含め、〈内部〉は〈外部〉により支えられていると説く外部論的な考察として展開されたことを考慮に入れると、この課題は、まだその本格的な端緒に付いてさえいないと言うことが出来るのである。

 ニーチェの洞察に従えば、道徳や清貧などの禁欲主義的理想だけでなく、真の世界、「本当」の自分といった観念もまた、現実を受け止めた上でそれに働き掛けようとする意志が弱り切っているために生み出されるものである。ここではない別の世界を空想し、その世界の到来を祈ることは、無力感に由来する絶望の現れであるというのが、ニーチェの診断である。

 ニーチェの議論の文脈から離れても、この洞察は一定の納得を与えてくる。

 実際、変更、改良可能な状況において、私たちは祈りを行うことはない。その代わり、状況に対処するための合理的な方法を、粛々と遂行するはずである。もはや自力ではどうすることも出来ないと感じられるような状況においてこそ、祈るような気持ちになったり、何か確実なもの、自分を救い上げてくれるものにすがりたくなったりするのではないだろうか。

 私たちは、多くの理想を無批判的に祈りの対象へと投げ入れてきた。無病息災、世界平和、核無き世界……。ここで私たちは、ニーチェの論理をそのまま流用して、「祈りは無力さの表れである」と批判したくなるかもしれないが、それは正当ではない。祈りは本質的に、目的を達成するための合理的な原理が存在しない故に生じ得るからである。祈りへの欲望、人間存在の無力さそれ自体を叩いても意味は無い。

 私たち自身の内面を見つめ、祈りを欲する私たちの情動を支える根拠を解明することにより、私たちは何を欲しているのか、それを実現するための根本の原理は何かについて洞察を進めていくことが可能となる。また、それと共に、私たちは何を欲し得るのかを把握し、祈りの存在理由を正当な仕方で洞察することもまた可能になるはずである。

 近代以前の社会では、この現実の意味を肯定することは、禁欲主義的な仕方でのみ容認され、かつ要求された。自由は否定され、欲望は〈聖人〉の理想に向けて固定され、それ以外のものを欲望の対象とすることは厳しく禁じられた。ここでは、欲望の本性(ほんせい)、普遍的な本質について探求すること自体が一つのタブーとされた。現代においても、禁欲主義的理想の支配は未だ終わっていない。欲望の概念を洞察する試み自体が、一種のあやしさを帯びたものとして映ることがその証左である。

 何をすればよいか分からない、何に向かって生きるのがよいか掴めない……。もしこれらの問題に対して根本的な仕方で洞察を展開したいのであれば、私たちはまず、自分自身の内面へと眼差しを向け、意識の水面に浮かび上がる情動の本質を正当な仕方で探求の対象とする必要がある。哲学者・竹田青嗣による『欲望論』は、その先駆的な業績として特筆すべきものである。

 文明の成立以降、情動の内省と、その表現に基づく情動の本質洞察は、自由と欲望を飼い慣らすことでしか共同体の秩序を維持し得なかった近代以前には、そもそも存立の許されない営みだった。それは、自分が何を求め、また、何に対して憧れてしまうような存在であるかについて、自分自身の理性で洞察し、それを言葉で自由に表現することが許されれば、人間存在の抑圧に基づく宗教=政治権力の体制の秩序は不安定なものにならざるを得なかったからである。

 現代の私たちは、歴史の大半において探求すること自体が抑圧されてきた、また、抑圧されざるを得なかった問題に直面している。そのことの意味を把握する時に初めて私たちは、過去の哲学の遺産を基礎として、自分たちが抱えている生の困難に向かい、原理的思考の新たな歩みを進めていくことが可能となるのだ。

(※本稿の初出は『yomyom vol.67』(新潮社)です)

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