【シリーズ黒人史5】Black Lives Matterへと続くアメリカ黒人の歴史~投票権法

文=堂本かおる
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1965年:ジョン・ルイス~命がけで得た投票権法

 昨年7月、かつてキング牧師と行動を共にした公民権運動のリーダーであり、34年間にわたってジョージア州選出の下院議員を務めたジョン・ルイス(1940 – 2020)が亡くなった。

 ルイスは投票権法に生涯を捧げた人物だ。

 1960年、ルイスは仲間と共にSNCC(学生非暴力調整委員会)を立ち上げ、3年後には議長となって有権者登録の推進運動に没頭した。その結果、起こったのが1965年、アラバマ州での「血の日曜日」だ。

 3月7日の日曜日、ルイスを含む約600人が黒人の投票権を求めて行進し、同州セルマにあるエドマンド・ペタス橋を渡ろうとした際、待ち構えていたアラバマ州警察に襲われた。ガスマスクで顔を覆った警官たちが行進の参加者を棍棒で殴りつけた。当時25歳だったルイスも頭を激しく殴られて流血し、気絶している。のちにルイスは「自分は死ぬと思った」と語っている。

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血の日曜日。警察がデモ隊に「2分以内に撤退しろ」と通告している瞬間。この後、阿鼻叫喚の図となった。薄い色のコートの青年がジョン・ルイス。(wikipediaより)

 この様子はテレビ中継され、全米にショックを与えた。これにより時の大統領リンドン・ジョンソンはすぐさま投票権法(VRA=Voting Rights Act)の案を出し、同年8月、議会を通過した「1965年投票権法」に署名した。この法によって前述の識字テストなどが廃止され、黒人の有権者登録率が跳ね上がった。

 南部諸州の中で最も黒人の有権者登録率が低かったミシシッピ州では、1965年の7%が2年後には60%となっている。さらに1988年には黒人の登録率が白人のそれを上回り、現在に至っている。

 当選する黒人議員も増え、1965年には全下院議員のうち黒人はわずか6名、上院0名だったものが、1971年には下院13名、上院1名となっている。ちなみに同法は黒人だけでなく、白人の有権者登録数をも引き上げる効果を発した。

2013年:黒人大統領の誕生~「投票権法はもはや不要」

 1965年投票権法は有効期間のある時限立法だが、期限が迫るたびに4回延長が為されてきた。だが2013年、米国最高裁は同法の第4章を違憲とする裁定を出した。これは命を賭けて投票権法を勝ち得たルイス議員だけでなく、全米の黒人社会に大きな衝撃と打撃を与えた。

 同法の第5章は黒人への投票抑圧の激しい州(主に南部諸州)や市町村区を指定し、それらの州や地区が投票法を変更する場合は連邦の承認を必要とすると定めている。第4章はその指定州を定めるための基準を定めており、最高裁はこの第4章を無効とした。指定州を定める基準がない以上、指定は自然解除となり、つまり全州が投票法の変更を自由に行えることとなった。

 最高裁がこの裁定を下した根本の理由は「米国史上初の黒人大統領の誕生」だった。2008年の大統領選でバラク・オバマが当選し、つまり南部諸州における投票差別は解消されたという解釈だ。この裁定をオバマ大統領(当時)自身も批判している。

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2015年3月7日、「血の日曜日」50周年記念としてエドマンド・ペタス橋を再度渡る行進が行われた。その際に抱き合うジョン・ルイス下院議員とバラク・オバマ大統領。(wikipediaより)

 最高裁の裁定が出ると同時に、テキサス州は「投票者ID法」を進めた。投票の際に連邦発行の写真付きIDの提示を義務付ける法だ。ID提示は一見「常識」のように思えるが、マイノリティや貧困層には来歴、貧困、取得手続きの複雑さによりIDを持てない人が少なからずいる。

 ID法と共に以前より問題視されているのが、犯罪歴を持つ人々の投票抑制だ。規定は州により異なるが、収監中は投票不可、重罪犯は出所後も生涯にわたって投票不可、出所後に投票権を回復できるが煩雑な手続きと手数料が必要……などだ。該当者には黒人と低所得者が多く、例えば2016年のフロリダ州ではアフリカン・アメリカンの20%が投票権を持たなかった。その後、同州は投票権回復の法を改正したが、本人が多額の手数料や罰金を払わねばならず、ジム・クロウ法時代の「投票税」だと批判されている。

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