「奴隷制」(本シリーズ Part.1)の廃止後、黒人たちは奴隷でこそなくなったものの、南部諸州では徹底的な人種隔離政策の対象となった。学校、レストラン、公園、劇場や映画館、ホテル、バスや電車といった公共の場で黒人が白人と同席することは許されなかった。加えて「黒人専用」のものはことごとく粗末であり、共有の公共施設であっても白人優先のために利用を大きく制限された。
これは黒人の日常生活に大きな不便をもたらせただけでなく、教育と就業の機会を大きく阻み、黒人を貧困に閉じ込め続けた。さらに黒人市民の、アメリカ人としての自尊心を大きく傷付けた。
社会生活におけるこうした人種隔離は「ジム・クロウ法」(本シリーズ Part. 4)によって定められていたが、黒人たちは同法によって「投票権」(本シリーズ Part. 5)さえ奪われており、政治的に事態を変える力を持たなかった。
そこで黒人たちは独自の「公民権運動」を開始し、1950年代半ばから1960年代半ばにかけての約10年間にわたって忍耐強い活動を続けた。その間にも人種差別は横行し、加えて公民権運動によって黒人が白人と同等の権利を得ることをよしとしない人種差別主義者による公民権運動リーダーやメンバーの暗殺が繰り返し起こった。しかしアフリカン・アメリカンたちは決して諦めなかった。

1963年のワシントン大行進で「私には夢がある」の演説を行うキング牧師(wikipediaより)
その努力が結実したのが「1964年公民権法」だ。同法により米国では人種・宗教・出自などに基づく差別がようやく禁止された。奴隷制の終焉から実に99年後のことであった。
公民権運動はアメリカを大きく揺さぶりはしたが、当時、米国全体としては経済的にも文化的にも「boom」(急成長、急発展)の最中にあった。1945年に第二次世界大戦が終わると、アメリカは豊かな消費時代に突入する。郊外の住宅開発が進み、クレジットカードが誕生し、新製品が大量に出回り、自由を謳歌する様々なアメリカン・ポップ・カルチャーも生まれた。出生数も爆発的に増え、この時代(1946~1964)に生まれた世代が「ベビー・ブーマー」と呼ばれ、大国アメリカの富を支えると共に、その豊かさを大いに享受した。
しかしアフリカン・アメリカンたちは、その豊かさの陰で命を賭けた公民権運動を続けなければならなかった。以下、公民権運動の中でも特筆すべき出来事を時系列に沿って記す。
1954:ブラウン対教育委員会裁判
カンザス州トペカ。1951年、当時8歳だった黒人の少女、リンダ・ブラウンは自宅から徒歩で通える場所にあった白人の小学校への入学を許されず、遠方にある黒人の小学校にバスで通学していた。リンダの父親はこれを不服とし、リンダを白人の学校に通わせようと裁判を起こした。
3年後、米国最高裁はジム・クロウ法の土台となっていた1896年の最高裁の裁定「分離すれども平等」を覆し、公教育の場における人種隔離を違憲とした。これが米国の人種隔離の一角を打ち壊した「ブラウン対教育委員会裁判」である。裁定が出た時点でリンダはすでに中学生であり、裁判の出発点となった小学校に通うことはなかったが、後に大学まで進み、生涯にわたって教育機会均等の活動を続け、2018年に75歳で他界している。
この裁判は NAACP(全米黒人地位向上協会)が全面的にバックアップし、ブラウン側の弁護士を努めたサーグッド・マーシャル(1967 – 1991)は、後に黒人として初の最高裁判事となった。
【1954年:アメリカの出来事】
・マリリン・モンロー、大リーガーのジョー・ディマジオと結婚
・子供へのポリオ・ワクチン大量接種開始
・バーガーキング第1号店がフロリダに開店