【シリーズ黒人史6】Black Lives Matterへと続くアメリカ黒人の歴史~公民権法

文=堂本かおる
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1955:ローザ・パークス〜バス・ボイコット

 アラバマ州モントゴメリー。1955年12月のある日の夕刻、仕事を終えた裁縫師のローザ・パークス(42)はバスに乗り、「カラード(有色人種)」の席に座っていた。バス前部の白人席が満席になったため、運転手はパークスにさらに後ろの席に移るよう告げるが、パークスはこれを拒否し、逮捕された。

 これをきっかけに地域の黒人市民はバスの乗車ボイコットを決行。バス会社が座席の人種統合を行うまで一切乗らず、徒歩か車の相乗りで通勤・通学するというものだった。人々は1年以上にわたり、寒い冬の日も、雨の日も、酷暑の夏の日もバスを使わず、歩き通した。バス会社は収益減に音を上げ、ついに人種隔離席を廃止した。

 パークスが白人に席を譲らなかった理由は「仕事で疲れていたため」と多くの史料に書かれているが、本人は「身体的な疲れではなかった、差別に疲れていた」という趣旨の発言をしている。

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バスでの逮捕の3カ月後にバス・ボイコットを組織したとして再度逮捕され、指紋採取されるローザ・パークス(wikipediaより)

 バス・ボイコットはNAACPによって推進された。パークスと夫も当初からNAACPのメンバーであった。パークス逮捕の9カ月前に同じく白人に席を譲らず逮捕された黒人の少女がおり、NAACPはバス・ボイコットを企画するが、少女が15歳で妊娠中であったことから運動のシンボルにふさわしくないとして取り止めている。

 多数ある黒人教会もボイコット推進の拠点となった。後に公民権運動の全米的なリーダーとなるマーティン・ルーサー・キングJr. 牧師(当時26歳)もこのバス・ボイコットを率いたことによって頭角を現している。

 パークスはボイコット終了後も脅迫を受けるなどし、他州に越さざるを得なかった。パークスが2005年に92歳で逝去した際、棺が米国議事堂の円形大広間に公開安置された。これは女性としては初、アフリカン・アメリカンとしては2人目であった。

【1955年:アメリカの出来事】

・ディズニーランド、カリフォルニア州アナハイムにオープン
・ゼネラルモータース、500万台の車を売り上げ、米国初の年間売上1億ドル突破企業となる

1957:リトルロック・ナイン〜高校の人種統合

 1954年の「ブラウン対教育委員会裁判」以後も南部での学校の人種統合は進まなかった。1957年、NAACPは統合推進のためにアーカンソー州リトルロックの白人のみの高校に9人の黒人生徒(女生徒6人、男子生徒3人)を入学させようと試みた。白人からの強い反発を想定し、NAACPは優秀かつ精神的に強い生徒を選んだとされている。

 新学年の初日、アーカンソー州知事は9人の入学を阻止するために州兵隊を校内に配備。地元の白人住民も登校する9人に唾を吐きかけるなど、あからさまな黒人憎悪を見せた。事態の膠着を見かねたドワイト・D・アイゼンハワー大統領は連邦軍を同校に送り込み、その混乱状態は全世界に報道された。

 半月後、判事の命令により知事は州兵隊を引き上げ、9人を入学させるも、9人への差別と暴力は続いた。翌年9月の学校新年度、知事は黒人生徒の入学を阻むためにリトルロック市内の全高校を1年間、閉鎖した。

 そのため「リトルロック・ナイン」と呼ばれた9人のうち、多くの生徒が転校、または通信教育で高卒資格を得て大学に進み、それぞれ大学教授、不動産企業経営、スイスに移住して起業など各分野で活躍した。

 2009年、バラク・オバマ大統領は自身の大統領就任式に9人を招待。9人は1940~1942年生まれ、現在も8人が健在。

【1957年 アメリカの出来事】

・エルヴィス・プレスリーが前年より連続してヒット・チャートを席巻
・ブロードウェイにて『ウェストサイド物語』公演

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