コロナ禍のいま「当たり前」に行われている私権制限 −帰国隔離、かく語りき−

文=柳原伸洋
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根拠の説明できない規則

 今までの隔離経験から、テレビから流れる情報シャワーは精神に悪いと分かっていたので、テレビは一切付けなかった。その分、読書に専心した。通販サイトでの注文は許可されているので何冊か注文した。ただし、郵便物には点検が入ることになっていた。理由はおそらく、酒類を持ち込む泥酔客への警戒だろうか。だが私は「書籍だけ」を注文しただけで液体は入っておらず、そこまで点検されるのはいかなる根拠に基づくのか不思議だった。

 そこで内線で理由を訊いてみると、フロントから「厚生労働省関係者」と名乗る若者に電話が回された。私はてっきり省員かと思ったが、後に派遣・バイトの方という線が濃厚になった。なぜなら、根拠を示してほしいと伝えたら「危険物のチェックのため」などと回答されたり、厚労省のサイト内「Q&Aコーナー」が示されたりするだけだったからだ。ホテル隔離3日目、ついに荷物は検査されなくなった。つまり、「根拠も不明で、従う必要のないルール」だったということだ。

 これらのルールは、ほとんど事前予告がなく、しかも滞在先によってルールが異なっている。つまり、入国後に「自分がどのように処遇されるのか」については事前に知ることが難しく、場当たり的な謎ルールに縛られる状況があるということだ(これも徐々に改善されてきたと聞く)。

私権制限が「当たり前」ではない社会へ

 最後に、コロナと私権の制限について考えてみたい。歴史学研究会編『コロナ時代の歴史学』(績文堂、2020年)は、一線級の歴史学研究者が「コロナ時代」に向き合った苦闘の書である。なぜ苦闘かといえば、歴史学は「過去」を扱う学問であり、先行きの見えない事態への言及を得意とはしない。しかし、「この時点」で何かが書かれること。これは記録あるいは史料になる。

 同書内で、ロシア近現代史研究者の池田嘉郎は「コロナ禍と現代国民国家、日本、それに西洋史研究」という論稿で、日本の管理体制を「私権の制限をできるだけ避ける対応」と書き、肯定的側面を見て取る。この後の「西洋史」の位置づけや、附記の「新自由主義」への言及など、コロナ禍の最中に歴史学者が書いた論稿として重要なものである。

 ただし帰国隔離による私権制限を体験した身からいえば、「私権の制限をできるだけ避ける」という目標設定が、日本政府に明確に意識されていたのかという疑問だ。よしんば「できるだけ避ける」方針があったとしても、私の経験という「下からの」観点から導かれた考えは違う。たしかに私権制限はコロナ禍の「移動」についてはある程度は避けられた。しかし、実際には感情主導の「ソフト」な抑制が効きつづけている。さらに私の帰国隔離報告に照らせば、私権あるいは人権を“無意識”に大きく制限してしまう方向に動いていないだろうか。

 新型インフルエンザ等対策特別措置法の第五条は「基本的人権の尊重」で、「……新型コロナウイルス感染症対策を実施する場合において、国民の自由と権利に制限が加えられるときであっても、その制限は当該新型コロナウイルス感染症対策を実施するため必要最小限のものでなければならない」と明記されている。この「基本的人権の尊重」は、2020年4月公布「東京都新型コロナウイルス感染症対策条例」の第十四条にも、ほぼ同じ文として登場する。

 私権制限を「できるがしない」ことと「できなくてしない」こととの間には懸隔があると考えるのか、それとも同じだと考えるのか。あるいは、対策をしているかに見えるが、内実は「放置」だとも言えないだろうか。

 この点は、先述の『コロナ時代の歴史学』で多くの歴史学者が書くように、このコロナ時代の状況をまずは中期的に、そしてさらには長期的に未来の歴史研究が精査していく必要があるだろう。体験談にすぎない本稿が、コロナ状況により「市民社会に入った亀裂」の一証言として、後の時代に検証される資料のひとつとなれば幸いである。

※帰国のホテル隔離中に、筆者Twitterには貴重な情報や励ましのメッセージ、さらに差し入れもいただきました。本当にありがとうございました。

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