昨年5月にミネソタ州ミネアポリスにて黒人男性ジョージ・フロイド(46)が警官に殺害されて以来、全米でBlack Lives Matterの抗議デモが起こった。初期には暴動となった都市もあり、「理由はなんであれ暴動や暴力は許されない」と批判する声が多く見受けられた。
アメリカは暴動の長い歴史を持つ。暴動の原因は様々あり、人種が理由のものは「人種暴動 race riot」と呼ばれる。個々の背景を読み解くと、暴動のきっかけとなった出来事の背後に、その時々の社会事情が色濃く滲み出てくる。人種差別や貧困など、個々人の力では変えられない抑圧を長期間にわたって受け続けたグループは大きなフラストレーションを溜め込み、最終的に暴動を起こすパターンが見て取れる。
本稿ではアメリカの「人種暴動」を黒人史に沿って見ることとする。

黒人少年が警官に射殺されたことにより起こったニューヨーク市ハーレムでの暴動。1964年(wikipediaより)
人種暴動〜3つの時代
アメリカには人種暴動が頻発した時代が3つある。それぞれの時代のピークは1919年、1943年、1967年だ。それらを黒人史の年表に当てはめると以下となる。
1619~1865:奴隷制
1876~1964:ジム・クロウ法(有色人種隔離政策)
1919:暴動多発
1943:暴動多発
1954~:公民権運動
1964:公民権法制定
1967:暴動多発
「奴隷制」(シリーズ Part. 1)の時代にも奴隷のナット・ターナーが奴隷主一家を含む多数の白人を殺害する謀反が起こったが、当時、そうした事件は極めて稀だった。奴隷の立場で謀反や暴動を起こすのはほぼ不可能だったのだ。代わりに、やはり奴隷だったハリエット・タブマンが命がけで他の奴隷を逃亡させる仕組み「アンダーグラウンド・レイルロード」が構築された。
奴隷制の終了後、黒人を奴隷時代と同じく徹底的に差別、隔離する「ジム・クロウ法」(シリーズ Part. 4)の時代となり、人種暴動が起こり始めた。この時代、黒人たちは人間としての尊厳と権利を求めて暴動を起こしたのだった。
もっとも、初期の人種暴動は「白人が黒人を襲う」ものだった。
1900年代~白人による暴動
●1919年「レッド・サマー」~血の夏
1919年7月27日、イリノイ州シカゴの湖で泳いでいた黒人少年ユージーン・ウィリアムス(17)は、湖に設けられていた黒人と白人の遊泳域の暗黙の境界線をうっかり超えてしまった。それに怒った白人たちが投げた石がウィリアムスの浮きを破り、ウィリアムスは溺死。
これをきっかけにシカゴは一週間にわたる大暴動となった。1,000軒以上の黒人市民の家屋が燃やされ、最終的に死者38人(黒人23人、白人15人)、負傷者数百人となった。この年の夏、ワシントンD.C.やニューヨーク市といった北東部とジョージア州など南部で計25回近い暴動が起こり、「レッド・サマー」と呼ばれた。レッドとは暴動で流された「血」を意味する。
レッド・サマーの背景にはいくつもの要因があった。まず、南部諸州の黒人がリンチ(シリーズ Part. 2)まで含まれる激しい人種差別から逃れ、かつ仕事を求めて北東部の都市部に移住する「大移動 Great Migration」が始まっていた。
黒人たちは食肉用の屠殺業など、それまで白人のみが就いていた仕事に就いた。折しも第一次世界大戦(1914-1918)の最中であり、出兵した白人の代わりに雇用されたのだった。また、白人労働者の組合によるスト中に、スト破り要員としても雇われた。
白人たちは職を奪われたことによる経済的な問題だけでなく、自身の土地に黒人が「侵入」してきたことに慢性的な怒りを抱えていた。これが白人が黒人を襲う暴動が頻発した理由だった。
他方、戦時下にヨーロッパでの戦いで活躍した黒人部隊は、現地では敬意の対象となったもののアメリカに帰国すると以前と同様に激しい人種差別に晒された。元兵士たちはようやく手に入れた人間としての尊厳を再度、踏みにじられ、この怒りから白人暴徒に立ち向かい、暴動は激しさを増した。
●1921年「タルサの人種虐殺」~黒人のウォール街
1921年5月30日。オクラホマ州タルサの、あるオフィス・ビルのエレヴェーター内で黒人青年ディック・ローランド(19)が白人女性添乗員(17)を襲ったとされ、これが理由でタルサの黒人地区グリーンウッドが白人暴徒によって襲われた。
当時、グリーンウッドは全米で最も豊かな黒人地区であることから「黒人のウォール街」と呼ばれていた。ジム・クロウ法時代であり、黒人は白人社会に頼れないからこそ、医師や弁護士から仕立て屋に至るまで、日常生活の全てを賄える黒人の専門職者たちが暮らしていたのだった。

完全に焼き払われたタルサの「黒人のウォール街」1921年(wikipediaより)
エレヴェーター”事件”の翌日と翌々日、35区画あるグリーンウッドに大量の白人暴徒が押し寄せ、殺戮と破壊の限りを尽くした。武器はタルサ市行政が提供したとも言われ、上空には複葉機も飛来した。事後、公式には死者36人と記録されたが、最大300人と推定されている。1,200軒以上の家が放火され、店舗は略奪された。生存者も完全に破壊された街に暮らすことはできず、黒人のウォール街、グリーンウッドは消滅した。
この事件は米国史に於いて長らく忘れ去られていたが、近年のBLMの影響下、ドラマや報道番組などで取り上げられる頻度が高まっている。