【シリーズ黒人史7】Black Lives Matterへと続くアメリカ黒人の歴史~人種暴動

文=堂本かおる
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1943年〜第二次世界大戦・移民・職

 1943年には全米5州で大きな暴動が起こっている。この時期は第二次世界大戦(1939 – 1945)の最中であり、米国内に経済と人種に関する不安定要素がいくつもあった。アフリカン・アメリカンの「大移動」は続いており、同時に南部の貧しい白人も職を求めて移動していた。移動先の都市にはポーランドを始めとする東欧からの白人移民労働者がすでに定着している場所もあった。西海岸では戦時下の労働力不足を補うため、メキシコからの短期労働者を大量に入国させていた。

 戦時下にあって軍需産業の報酬は良く、職と住宅が異なる人種民族グループ間での奪い合いとなった。そうした中、ルーズベルト大統領は防衛産業での雇用の人種平等化を進めており、白人の不満を高めた。南部から移住した白人は都市部でも黒人への偏見を維持し、黒人は白人全般のみならず、慢性的な警察からの抑圧により、特に白人警官への大きな不信感を募らせた。急激に増えたメキシコ系への差別と反発も生まれた。

●アラバマ州モービル(1943年5月25日)

 ルーズベルト大統領の政策に従い、地域最大の乾ドック会社がそれまでは白人のみの職であった溶接工に黒人12人を配属。これを許せないとした4,000人近い白人が鉄パイプなどを手に黒人従業員を襲った。暴動鎮圧に州兵隊が出動。死者はなかったものの、50人以上が重症を負った。

●カリフォルニア州ロサンジェルス(1943年6月3~8日)

 別名「ズートスーツ暴動」。メキシコ系アメリカ人の若者たちが当時流行のズートスーツを着ていたことから、白人水兵たちがスーツを剥ぎ取って裸にし、殴打。ゆったりしたデザインのズートスーツは布を多く使うため、戦時下に愛国的でないという理由だった。同じくズートスーツを愛用していたアフリカ系アメリカ人(ズートスーツはハーレムのジャズクラブ・シーン発祥)、イタリア系アメリカ人、フィリピン系アメリカ人も標的とされた。死者が出なかったことは奇跡とされている。

●テキサス州ボーモント(1943年6月15~17日)

 白人女性が「黒人男性にレイプされた」と訴えたことから港湾労働者を含む約4,000人の白人が留置所に押し寄せるも女性は容疑者を特定できず、白人暴徒は黒人地区を襲った。死者3人、負傷50人以上、逮捕者200人以上を出し。暴動は州兵隊によって鎮圧された。

●ミシガン州デトロイト(1943年6月20~22日)

 5つの暴動の中で最大規模。デトロイト川の中洲で白人と黒人の若者たちのケンカが起こり、瞬く間に暴動となった。渦中、双方にそれぞれ「白人暴徒が黒人の母子を川に投げ込んだ」「黒人が白人女性をレイプ殺害した」という噂が広まり、怒りから相互のコミュニティを襲った。暴動は3日間にわたり、死者34人(うち25人が黒人、そのうち17人は警官による殺害)、負傷433人、逮捕1,800人。

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「我々白人の街には白人の住人を」デトロイト暴動の前年1942年(wikipediaより)

●ニューヨーク市ハーレム(1943年8月1~2日) 

 宿泊先のホテルに払い戻しについてのクレームをつけた黒人女性客を白人警官が逮捕。居合わせた黒人兵ロバート・バンディが逮捕を防ごうとし、警官に撃たれた。軽傷であったが病院に搬送されるバンディを見た群衆が「撃たれて死んだ」と噂を広め、暴動に。暴徒は黒人経営の店舗は襲わず、白人経営の店舗のみを略奪。市長は6,000人の市警官と軍警官を招集し、ラジオで暴徒に帰宅するよう呼び掛けた。死者6人、逮捕600人。

1960年代~公民権運動とキング牧師暗殺

 公民権運動(シリーズ Part. 6)が行われていた1960年代は全米各地で非常に多くの暴動が起きている。以下、公民権運動の主だった出来事と、主な暴動を時系列で記す。

●ミシシッピ大学暴動 (1962年9月30日〜10月1日)

 1954年に「ブラウン対教育委員会裁判」によって公立校の人種分離は違憲とされたにもかかわらず、3年後、アーカンソー州リトルロックの高校に初の黒人生徒が入学する際、白人は暴動とも呼べる反対運動を繰り広げた。1960年にはミシシッピ州で当時6歳の黒人少女ルビー・ブリッジスが白人の小学校に入学すると、やはり激しい反対運動が起こり、登校には4人の連邦保安官が警護に付かねばならなかった。

 このように学校での人種統合は白人にとって断固として受け入れられない事態であった。1962年、州立のミシシッピ大学に初の黒人学生ジェームス・メレディスが入学するときも反対する白人によって暴動が起こり、3,000人の連邦軍兵士が投入された。死者2人(フランス人ジャーナリスト、白人男性)、負傷者300人。

■1963:ワシントン大行進~キング牧師「私には夢がある」の演説
■1963:アラバマ州での黒人教会爆破~4人の少女の死
■1964:「1964年公民権法」制定

 1964年7月2日、リンドン・B・ジョンソン大統領が「1964公民権法」に署名。10年以上にわたる公民権運動の大きな成果ではあったが、黒人市民と警察の関係は一朝一夕には改善せず、この年の夏に各地で大小の暴動が起きている。以下はその一部。

●ニューヨーク市ハーレム(1964年7月16〜22日)

 高校の夏期講習に通っていた黒人の男子生徒ジェームス・パウエル(15)に、学校近隣のアパートの管理人が「汚い(Nワード)め!」と水をかけたことから口論に(管理人はNワードの使用を否定)。駆け付けた警官がパウエルを射殺したことから数日間にわたる暴動となった。死者1人(パウエル)、負傷者118人、逮捕者465人。

●ニューヨーク州ロチェスター(1964年7月24〜26日)

 黒人地区での屋外パーティで酔った黒人男性ランディ・マニゴート(20)を警官が逮捕しようとした際、パーティ参加者などが抗議として瓶などを投げたため、警官は警察犬を含む応援を要請。警察犬を群衆にけしかけたことが人々の大きな反感をかい、暴動になったと考えられている。死者4人、負傷者350人、逮捕者1,000人。

●ペンシルヴァニア州フィラデルフィア(1964年8月28〜30日)

 運転中の黒人女性オデッサ・ブラッドフォードが同乗の恋人との口論により道路で停車。警官(白人と黒人)が車の発進を促すも女性が拒否したことから、警官が女性を車から引きずり出そうとしたことが暴動のきっかけ。「妊娠中の黒人女性が白人警官に殴られて死んだ」という噂が広まり、黒人暴徒は主に白人経営の店舗を略奪。死者0人、負傷者341人、逮捕者774人。

■1965:血の日曜日(投票権を求めたセルマでの行進)(シリーズ Part. 5

●カリフォルニア州ワッツ(1965年8月11〜16日)

 飲酒運転をしていた黒人男性マークウェット・フライ(21)と、逮捕しようとした警官が揉み合いとなり、フライは警棒で顔を殴られる。周囲の群衆から「警官が現場にいた妊娠中の女性を蹴った」という噂が広まり、やがて大規模な暴動となる。5日後、約14,000人もの州兵隊の出動により収束。死者34人、負傷者1,032人、逮捕者3,438人。

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カリフォルニア州ワッツ暴動。1965年(wikipediaより)

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