Netflix『モキシー』が描く性差別との戦い 女性たちの連帯を描いた良作が拭いきれなかった白人優位の視点

文=近藤真弥
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Netflix『モキシー 〜私たちのムーブメント〜』より

 今年3月、アメリカの人気コメディアンであるエイミー・ポーラーにとって2作目の映画監督作品がネットフリックスで配信された。『モキシー 〜私たちのムーブメント〜』というそれは、2017年にジェニファー・マチューが発表した同名小説を原作としている。

 本作の物語はアメリカの高校生ヴィヴィアン(ハドリー・ロビンソン)を中心に進む。内気なヴィヴィアンは、親友で幼なじみのクラウディア(ローレン・サイ)と地味な学校生活を送っていた。アメフト部の主将ミッチェル(パトリック・シュワルツェネッガー)といったジョックを頂点とするスクール・カーストや、それに伴う不平等と女性差別にうんざりしながらも、公には口に出せないでいる。

 しかし、転校生のルーシー(アリシア・パスクアル=ペーニャ)と出逢ったことで、ヴィヴィアンの気持ちは少しずつ変化していく。飲み物に唾を垂らされたり、人種差別や女性蔑視な言動をぶつけられたりと、ミッチェルのさまざまな嫌がらせに反発するルーシーの姿に感銘を受けたのだ。この変化は、かつて母のリサ(エイミー・ポーラー)が夢中になっていたビキニ・キルなどのライオット・ガール・バンドやZINEとの邂逅によって、より高まっていった。

 そしてついにヴィヴィアンは、不平等や女性差別を批判した冊子『モキシー』を匿名で作りあげる。さっそく校内の女子トイレで配布すると、小さな反響が積みかさなり、想像以上の大きなうねりを生みだすのだった。

監督エイミー・ポーラーの進化作

 本作はフェミニズム要素が濃い青春映画だ。女性というだけで被る差別や抑圧を明確に拒否する怒りの物語が描かれている。

 こういった題材はポーラーにとって珍しいものではない。盟友の人気コメディアン、ティナ・フェイと共に女性差別や男性優位社会がネタのコメディーを数多く作りあげ、評価を高めてきたのは周知の事実である。社会が生んだ構造的不平等に、ユーモアという強力な矛で挑んできたのがエイミー・ポーラーだ。

 とはいえ、映画監督デビューを果たした2019年のコメディー作品『ワインカントリー』と比べて、大きな変化と言える側面も目立つ。お得意のコメディー要素は抑えめにし、スクール・カーストの歪さや女性たちの声をなかなか聞いてもらえない哀しさを前面に打ちだしている。そういう意味では、映画監督としてのポーラーが新たな表情を見せるまっとうな進化作とも評せる内容だ。

 だが、ポーラーは笑いを隅に追いやったわけではない。ヴィヴィアンの恋人であるセス(ニコ・ヒラガ)が家に来たとき、リサが〈今夜は漏らさないでね〉〈忘れた? 1年生の遠足のこと〉とセスをいじるシーンでは、コメディアンのポーラーが顔を覗かせる。その姿に思わずにんまりとしてしまったのは言うまでもない。

 コメディアンとしてのユーモアはオープニングでも楽しめる。焦燥感が漂う表情を浮かべながら、暗い森を疾走するヴィヴィアンという構図は、まるでホラー映画みたいだ。それはもしかすると、女性差別が根強い私たちの世界こそ、恐怖でいっぱいのホラーだと言いたいのではないか。そんな推察をせずにはいられない皮肉も見いだせる。

「女性なら連帯できる」から距離を置く

 多様性の面でも本作は興味深いところが多い。たとえば人種に注目してみると、それぞれの背景や立場の違いに対する目配せを忘れていないのがわかる。ドミニカをルーツとするアリシア・パスクアル=ペーニャが演じるルーシーは、ヴィヴィアンとバチャータを踊るだけでなく、スペイン語を話すこともある。ちなみにアリシアいわく、ルーシーの人物像はポーラーの好意的後押しもあって実現したそうだ。

 中国系移民二世の女性であるクラウディアのキャラクター描写では、移民ゆえのプレッシャーや性格が影響して、『モキシー』をきっかけとした女性たちの連帯に加わりづらい者の切実さも見せている。

 カリフォルニア州立大サンバナディーノ校の憎悪・過激主義研究センターの報告も示すように、近年のアメリカはアジア系がヘイトクライムの被害者となりやすい傾向にある。さらに、男性より女性が標的にされがちな側面は、女性差別も絡む問題だと表している。

 くわえてアメリカには、以前からアジア系に対する偏見や差別が蔓延っていた。映画やドラマで言えば、人々の脅威となる“イエロー・ペリル”、男性に従順で寡黙な“ゲイシャ・ガール(あるいは“チャイナ・ドール”)”など、ステレオタイプなアジア人像を描いてきた歴史がある。そのような社会的背景による影響か、クラウディアの母・リウ(イオン・ソン)は娘が目立つ言動をしないよう厳しく監視する。

 みんながみんな、盛大に声を張りあげられるわけじゃない。その問題を解消するヒントが明確に示されないのは引っかかるものの、女性なら誰とでも繋がれるという安易かつ恣意的思考から距離を置いた姿勢は高く評価できる。

 筆者はこうした姿勢を見て、バリー・ジェンキンス監督の映画『ビール・ストリートの恋人たち』(2018)における、シャロン(レジーナ・キング)とヴィクトリア(エミリー・リオス)の関係性を想起した。

 この関係性が描かれるのは、娘・ティッシュ(キキ・レイン)の恋人であるファニー(ステファン・ジェームズ)の無罪を証明するため、シャロンがヴィクトリアと話しあうシーンだ。ヴィクトリアは顔を見ていないにもかかわらず、ファニーにレイプされたと証言した。それを疑問に思ったシャロンは、証言を訂正してほしいとヴィクトリアにお願いをするのだった。

 話しあいの前、シャロンは同じ女性だから話ができると語る。実際、最初はシャロンとヴィクトリアは冷静に言葉を交わしていた。しかし、レイプに話が及ぶと、ヴィクトリアは取り乱し、話ができなくなってしまう。性暴力はヴィクトリアに深い傷を残していたのだ。結局、証言の訂正は実現しなかった。

 シャロンとヴィクトリアが話しあうシーンは、女性同士なら手を繋げるのは当然という楽観に、痛烈な形で釘を刺す。背景の違いに想像が及ばなければ、断絶を生む可能性だってある。そこには、誰かを踏みつけたうえでの理想なり平和が実現しても意味はないとする、冷徹な理想主義がちらつく。

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