2019年、韓国のみならず日本でも大ヒットしたドラマ『愛の不時着』や『梨泰院クラス』を抑え、その年の百想芸術大賞(韓国のゴールデングローブ賞といわれる総合芸術賞)のテレビ部門で大賞を受賞したのが、本作『椿の花咲く頃』である。
前出の二作に比べると、物語の派手さはない。架空の小さな港町オンサンを舞台に繰り広げられるシングルマザーと熱血警察官の笑いあり、涙あり、そしてサスペンスありのロマンチックコメディ、要するに何でもありの下町ドラマである。
とはいえ、そのような「何でもあり」感に目新しさを感じるわけでもないし、感動的なカタルシスを得るわけでもなさそうに思えるのだが、韓国では19年最高視聴率を獲得するほど多くの人々の心を掴んだ作品だという。私もおおいに泣いた。
近年、質の高いドラマを作り続けている韓国において、この作品が特に支持された理由とは何なのだろうか。
『椿の花咲く頃』はこんな物語だ。6年前に幼い息子を連れて小さな田舎町オンサンにやってきて、スナック・カメリアを営むシングルマザーのドンべク。彼女に好意を寄せるまっすぐ過ぎる性格の警察官ヨンシク。言葉づかいは乱暴だがとても情の厚い、でも未婚の子持ちと息子の結婚は許すことができないヨンシクの母(彼女もシングルマザーである)。いわゆる井戸端会議の格好の的である3人と、彼らをとりまくクセの強いオンサンの住人たち。さらには、長年音信不通だったドンベクの母親、有名野球選手の元カレ、ハラスメント常習犯の金持ち社長とその妻のエリート弁護士などなど……さまざまな人物が交錯し、ドラマがかたちづくられていく。
韓国文学の翻訳者・斎藤真理子さんは、韓国映画を特集した雑誌「ユリイカ」(2020年5月号/青土社)に寄稿した「おばあさん映画」を紹介するエッセイのなかで、「食い詰めた孤独な高齢女性にどのような尊厳が可能かを描くことは、韓国現代史そのものを描くことだ」といっている。
このエッセイで紹介されるおばあさんたちの多くは、男尊女卑が根深く残り続ける韓国社会のなかで貧困から脱出できずに子どもを手放した過去をもち、救済がないまま死んでいく。
「親に捨てられた娘」と「子どもを捨てた母」は互いに絡まりあったペアの存在であるが、彼女たちの「尊厳」という韓国現代史が抱える大きな難題に、小さな架空の港町を舞台にした『椿の花咲く頃』は正面から対峙することを選択している。
物語の中でヨンシクはドンベクに「あなたは立派で強いひとだ」と繰り返し何度も伝える。ドンベクに好かれたいから褒めているのではない。酔客からの理不尽な要求に対するドンベクの毅然とした対応に心を動かされたヨンシクからすれば、当たり前の事実を言っているに過ぎないからだ。
しかし、周囲の人間は誰もそのようにドンベクを見てないし、そもそもドンベク自身が「下を向いて歩く」ことに慣れてしまっているのである。彼女が経営するカメリアには窓がない。格安の古い倉庫を改装して作られたため光が差しこまないカメリアは、幼いころに母に捨てられ、拭えない「暗さ」を背負ったまま成長してしまったドンベクが生きる現実そのものだ。
そんなカメリアにやってくる客のほとんどは「弱い男」たちである。ケジャン(ワタリガニの醤油漬け)を名物とするオンサンは、女たちの町(レシピと店の経営権を女が握っている)。そんなオンサンの社会の中でこき使われる男たちが安心して羽を伸ばせるオアシスがカメリア=ドンベクというわけだ。
しかし、カメリアは男たちからの支持=甘えによってそこそこ繁盛している一方で、オンサンの女たちからは夫を誘惑する「ふしだらな女/店」として疎まれてしまっている。
ドンベクにとっては、無学な自分にできる数少ない特技のひとつが料理で、さらにお酒も提供するのは利益率がいいから、という現実的かつ合理的な選択でしかなかったのだが、未婚の母親が水商売を営むことへの根深い偏見や、そうした見られ方に対するドンベクの過剰な警戒心が、住人たちのさらなる不信感に繋がってしまうのである。
このような「負の連鎖」は、ドンベクと住人の間にある認識のズレからではなく、むしろ双方の認識が一致するところに生まれている。つまり、ドンベクは、34年という歳月をかけて自分と社会(住人たち)によって築きあげられた「不幸な女」というイメージに閉じ込められているのだ。
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